top of page

前橋市

M-1号墳とその他

復元された帆立

赤城山の南の麓、丘陵性台地に分布する大室古墳群に属する帆立貝型墳で、調査後に復元整備されました。しかしながら現状、見るも無残に墳丘は凹凸に穴だらけとなってます。  墳丘は、墳丘長35.2mを測り、円筒埴輪、大刀、盾、靱、馬、家、翳などの形象埴輪が樹立されていました。また、周囲には周溝が巡る。埋葬施設は、ほとんどの石材が抜き取られていたようですが、輝石安山岩の割石で構築された両袖式の横穴石室と判明してます。石室は、焼土と炭化物がまとまって確認されていることから、炭窯のようなものに二次利用されたと考えられます。  出土遺物は、鉄斧、鉗子、鉄鏃、小刀、土師器杯が出土。築造年代は、6世紀後半と推定。

おとうか山古墳

標柱はお稲荷山古墳

荒砥川の右岸、富田町に残る径29mほど円墳ですが、墳丘は藪状態で墳丘ラインを見ることは出来ません。白い標柱が建ってますが、「お稲荷山古墳」と表記されてます。  出土遺物は、壺型の土師器が出土。埋葬施設など他詳細は不明。

カロウト山古墳石棺

墳丘消滅、石棺のみ移築

当古墳は、前橋市文京町2丁目にあった帆立貝型墳ですが、現在、墳丘は消滅し、出土した石棺を中川小学校に移設してます。別名「唐櫃(カロフト)山」と呼ばれていました。  明治時代に消滅した墳丘は、全長39.6mほどの規模で、古くから墳丘上には、凝灰岩を刳り抜いた石棺が露出していたという事です。移設保存されている石棺は「身」の部分のみで、「蓋」の所在は不明となる。また、今まで家形石棺とされてきましたが、舟形石棺の可能性が指摘されてます。

上陽村33号墳

榛名山を背景に映えます

広瀬川右岸の台地上、東善町の畑の中に位置する円墳で、榛名山を背景に低く裾の長い墳丘が映えます。  墳丘規模は、径33m、高さ2.9mを測り、葺石、周溝も確認されてます。円筒埴輪、朝顔形埴輪片も墳丘から採取されてます。埋葬施設は、未調査のため不明ですが、おそらく横穴石室が想定されます。築造年代は、6世紀中頃と推定。

不二山古墳

二子山の1/2サイズ

広瀬川の右岸の台地上に位置する前方後円墳で、だいぶ削平を受けている為、どちらが後円部なのか見失う状態です。  墳丘規模は、全長54.5m、後円部径30m、高さ7m、前方部幅38m、高さ6mを測ります。葺石を備え、円筒埴輪、形象埴輪が配列されていたようです。墳丘周囲には、盾形の周溝が巡っていました。埋葬施設は、角閃石安山岩を用いた両袖式の横穴石室ですが埋没してます。  出土遺物は、金銅製冠、直刀、槍、鉄鏃、耳環、玉類、須恵器が出土。築造年代は、6世紀後半と推定。
Placeholder Image

中二子古墳

大室古墳群最大

赤城山の南の麓、丘陵性台地に分布する大室古墳群に属する前方後円墳で、4基ある前方後円墳の中でも最大規模を誇ります。  墳丘規模は、墳丘長111m、後円部径65.8m、前方部幅78.8m、高さ14.8mを測り盾形の二重周溝を含めると全長170mにも達します。2段築の墳丘と北側中堤には葺石が施されてました。埋葬施設は、未調査ですが後円部南側に横穴石室が推測されます。  中堤の内外縁、墳頂、墳頂下段テラス多くの円筒埴輪列が確認されてます。北側の中堤には、線刻による人物円筒埴輪が出土。ほか盾持ち武人埴輪は、中堤南側半分に並べられ、器財型埴輪は墳頂、人物、盾形埴輪は後円部南側の中堤上に確認されてます。埴輪の胎土は大きく分けて2種類に分類され、一方が藤岡市の本郷埴輪窯から供給されたと考えらる。築造年代は、6世紀の後半と推定。

亀塚山古墳

横からの眺めに萌える

利根川の旧流路である広瀬川の河岸崖に位置する帆立貝型古墳で、形の良い墳丘を見ることが出来ます。墳丘には、墳頂への階段が付いてます。  墳丘規模は、全長60m 後円部径40m、高さ6.5m、くびれ部長15m、前方部長20m、高さ1.5mを測り、葺石、周溝が認められます。埋葬施設は、未調査のため不明。周溝から埴輪片が採取されてます。築造年代は、5世紀後半から6世紀初頭と推測されます。

今井神社古墳

縄掛け突起の石棺出土

荒砥川の東岸の低台地に位置する前方後円墳で、前方部を東南に向けています。墳頂には社殿が建ち古墳そのものが今井神社となってます。  墳丘規模は、墳丘長71m、後円部径44m、高さ7.5m、前方部幅50mを測り、盾形の周溝を含めると全長90mにも達する。2段築成の墳丘には、葺石、中段テラスに円筒埴輪(B種ヨコハケ、黒斑あり)が確認される。  埋葬施設は、説明板の横に移設してある安山岩板石に縄掛け突起が加工されている天井石と石棺から竪穴系石室と考えられます。築造年代は、5世紀の後半と推定。

伊勢山古墳

別名「五社稲荷古墳」

西大室町の五社稲荷神社となっているのが伊勢山古墳で前方部を西に向け、稲荷神社が墳頂に鎮座する。北西の15基ほど円墳とで伊勢山古墳群を形成していました。  墳丘規模は、全長67mを測り、葺石が認められ、幅7mの盾型周溝が巡っていました。埋葬施設は、南に開口する横穴石室で、副葬品として金環、銀環が出土してます。築造年代は、6世紀末~7世紀前頭と推定される。

前二子古墳

盛りだくさんの出土品

赤城山の南の麓、丘陵性台地に分布する大室古墳群に属する前方後円墳で、イギリス政府外交官アーネスト・サトウによって調査されたことでも有名です。また、崇神天皇第一皇子である豊城入彦命の墳墓である可能性が指摘され、東側数百メートルの所に位置する梅木遺跡(豪族居館)との関連性も推測されます。  墳丘規模は、墳長93.7mを測り、2段築成で上段にのみ葺石が確認される。周囲には、二重の周溝が巡り、周溝を含めた全長は148mにも達する。墳丘下段テラス、墳頂、外提両端には円筒埴輪列が配され、形象埴輪である人物、盾型埴輪は、後円部墳頂部に、人物、盾形埴輪は下段テラスに設置されてました。埋葬施設は、安山岩と凝灰岩を使用した両袖式の横穴石室で、全長13.8mを測ります。玄門部には楣石と梱石の間を扉石で塞ぐ構造を備え、石室内はベンガラにより赤彩が施されている。  出土遺物は、鏡、装身具、武具、馬具、農工具、土師器、須恵器、土師器と充実した多くの出土品が確認されている。築造年代は、6世紀の初頭と推定される。

前橋二子山古墳

朝倉・広瀬古墳群に属す

広瀬川の西側、前橋台地の東端に位置する前方後円墳で、二子山児童公園として保存整備されてます。  墳丘規模は、全長104m、後円部径72m、高さ11m、前方部幅76m、高さ9.5mを測り、2段築成を成し、川原石の葺石、埴輪を有していました。前方部を西北に向け、二重周溝の存在も考えられてます。埋葬施設は、未調査だが横穴石室と考えられる。築造年代は、6世紀後半と推定。

前橋八幡山古墳

ブラタモにも登場

広瀬川右岸の段丘上に位置する前方後方墳で、素晴らしい形の良い墳丘を残してます。  墳丘規模は、全長130m、後方部幅72m、高さ12m、前方部幅59m、高さ8mを測り東日本最大級を誇ります。墳丘には川原石の葺石が施され、前方部を東南方向に向け、周溝が巡っていました。埋葬施設は、後方部墳頂部1.5m下方に川原石積み構造や粘土槨が認められ、竪穴石室と推測されます。  出土遺物は、周溝から土師器が確認される。築造年代は、4世紀中頃と推定。

前橋天神山古墳

三角縁神獣鏡出土

広瀬川の右岸段丘上に位置する前方後円墳ですが、現在は削平され後円部の中心部分のみが残る。   墳丘規模は、全長129m、後円部径75m、高さ9m、前方部幅68m、高さ7mを測ります。3段築成の墳丘には、墳頂に土師器の配列、中段、下段テラス、上段斜面に葺石、周囲には周溝が巡っていました。  埋葬施設は、後円部墳頂に粘土槨が確認されている。副葬品として、三角縁神獣鏡をはじめ鏡類5面、玉類、武器、武具、工具、赤色壺型土器など多くものが確認され、東日本の古式古墳の特徴を示していました。築造年代は、4世紀前半から中頃と推定されます。

前橋市9号古墳

伯牙弾琴鏡が出土

群馬県庁から県庁通りを東へ900mほどに位置する前橋八幡宮(前橋市本町2丁目)が古墳で、ほぼ面影はなく墳丘上に社殿が建っている状態です。  古墳からは、中国古代の琴の名手伯牙を題材にした文様が鋳出されている唐製鏡の伯牙弾琴鏡(直径17.2cm)が出土しています。国内では12面の出土例があって、群馬県内で2面確認されてます。他詳細は不明。

堀越古墳

精巧な玄門に心躍る

赤城山南麓の緩傾斜面中腹に位置する山寄の円墳です。  墳丘規模は、径25mほどを測り、周溝が北側高所以外に確認される。主体部は、両袖式の横穴石室で、硬質の安山岩を使用した切り石組積みの精巧な仕上がりです。特に玄門部は一番の見所となる。石室前には台形状に広がる前庭部が付設されます。  出土遺物は、小刀と前庭部の左右石組みの壁に接して土師器坏、須恵器坏蓋が出土。築造年代は、7世紀後半と推定される。

大小路山古墳

熊谷稲荷神社

利根川の右岸、前橋台地上に位置する円墳で総社古墳群に属します。  墳丘規模は径17.4m、高さ2.1mを測り、墳丘上に熊谷稲荷神社が鎮座します。ほか詳細は不明。
 

大黒塚古墳

墳丘流出

「木花佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)」を祀り、安産祈願で有名な産泰神社の南に位置する前方後円墳です。現状は、竹藪の中で陥没した墳丘あって、流出した墳丘が南の住宅側に流され円墳状に盛土されてます。  墳丘は、全長46mほどの規模に埴輪、葺石、周溝が認められてます。埋葬施設は、横穴石室と言うことですが、流失した墳丘からは確認できませんでした。  出土遺物は、乳文六鈴鏡、勾玉、金冠、須恵器が出土。築造年代は、古墳時代後期と推定。

宝塔山古墳

仏教文化の受容か

利根川の西岸、前橋台地上に位置する大型方墳で総社古墳群に属します。東側120mほどに同じく方墳の蛇穴山古墳が隣接する。なお、墳丘の一部は、秋元氏歴代の墓域となっている。  墳丘規模は、一辺66m、高さ12mを測り、18mほどの周溝が巡る。埋葬施設は、南西方向に開口する切石切積した全長12.04mの複室構造両袖式横穴石室で、壁面には漆喰塗布も確認される。玄室には、輝石安山岩製の長さ2.3m、幅1.3m、高さ1.33mの刳抜式家形石棺が安置されています。棺蓋には、長辺2ヵ所ずつ、短辺に1ヵ所ずつの縄掛け突起が施される。そして、特徴的なのは脚部の4辺に格狭間が刳り抜かれ仏教文化の影響を見ることができます。  築造年代は7世紀中葉と推定。総社古墳群の3基の大型方墳(愛宕山・宝塔山・蛇穴山古墳)は、古墳時代末期の上毛野地方で、ヤマト王権との強いつながりを背景とし、総社地域が中心的役割を担ってきたと考え得る重要な存在と考えられます。

小二子古墳

小さな帆立

赤城山の南の麓、丘陵性台地に分布する大室古墳群に属する帆立貝型の前方後円墳で、小型の墳丘が公園内に整備されてます。  墳丘規模は、全長38mと小型ですが、2段築成で、円筒埴輪、形象埴輪が配されてます。現在も復元整備され埴輪列を見ることが出来ます。埋葬施設は、南西に開口する半地下式の無袖式横穴石室で、全長6mを測ります。  出土遺物は、直刀、刀子、鉄鏃、刀子、ガラス製小玉、金環、弓金具が出土。築造年代は、6世紀後半と推定。

少将塚古墳

藪に包まれる

荒砥川の右岸の堤防沿いに位置する前方後円墳ですが、墳丘はなく藪に包まれた中に、コンクリート塀に囲まれた区画があり、赤い鳥居に祠、少将霊塚、石仏などが祀られています。  もとの墳丘は、全長30.3m 高さ2.1mほどの規模だったようです。標柱がなければ古墳とは断定不可能です。荒砥村336号墳とも呼称されます。他詳細は不明。

山王金鶏冠塚古墳

金鶏冠が出土

広瀬川の右岸、山王町に位置する前方後円墳で、見学しやすく綺麗に整備されてます。  墳丘は墳丘長52.25mを測り、前方部を南東に向ける。2段築成の墳丘には葺石が認められ、周溝が巡っていました。埋葬施設は、角閃石安山岩の切石積みの両袖式横穴式石室で、玄室長3.64mを測り、石室入り口部は破壊されていました。  出土遺物は、新羅や伽耶でつくられていた冠と類似する金銅製冠をはじめ、武器、武具、馬具、装身具など多くのものが出土しています。築造年代は、6世紀の後半と推定。

後二子古墳

犬猿の仲なのに?

赤城山の南の麓、丘陵性台地に分布する大室古墳群に属する前方後円墳で、公園内に整備保存されてます。  墳丘規模は、全長85m、後円部径48m、高さ11.1m、前方部幅59.5mを測ります。2段築成の墳丘には、多くの円筒埴輪列が並べられ、盾形の周溝が巡っていました。埴輪は、下段のテラスと墳頂部に配され、主に北側に大型の円筒埴輪、南側に小型の円筒埴輪が確認されてます。なかには、親子猿や犬の小像が貼付されていたというユニークなものも見られます・  埋葬施設は、南に開口する半地下式の両袖型横穴式石室で、全長9.42mを測ります。特に墓道は、全長12mと長大で、葬送儀礼に使われたと考えられる柱穴も確認されてます。副葬品として、金環、武器、馬具などが出土。築造年代は、6世紀後半と推定されます。

愛宕山古墳

刳抜式家形石棺が安置

利根川西岸、前橋台地上に位置する大型の方墳で、総社古墳群に属します。  墳丘規模は一辺56m、高さ8.5mを測り、墳丘下段に葺石が施され、周囲には周溝が巡っていました。埋葬施設は、両袖式横穴石室で石室全長9.3m、玄室長7m、奥壁幅3m、高さ2.8mを測ります。そして、石室内には、凝灰岩製の刳抜式家形石棺が安置されている。石棺蓋長辺に二対の縄掛け突起が付き、石棺身の短辺に盗掘穴が開けられている。家型石棺は、同古墳群の宝塔山古墳にも安置されているが県内では希少である。  築造年代は、7世紀前半と推定され、前方後円墳の築造から方墳へと移行する時期と考えられる。

文殊山古墳・阿弥陀山古墳

隣接する墳丘

広瀬川右岸の台地上、山王町の畑の中に隣接して存在する円墳です。  阿弥陀山古墳は、径25m、高さ4mを測り、葺石は確認されていない。埋葬施設は、未調査のため不明。  文珠山古墳は、径50mほど円墳とされるが、帆立貝型墳の可能性も指摘される。墳丘には葺石、周囲には周溝が巡っていました。埋葬施設は、未調査のため不明。出土遺物は、台付甕、底部穿孔壷形土器が出土。築造年代は、4世紀中頃~6世紀初頭と推定される。

木瀬村6号~8号墳?

小島田町に分布

荒砥川と桃ノ木川に挟まれた地域の小島田町、笂井町、上増田町、女屋町にわたって木瀬村の番号が付いた古墳が分布していました。状態の良い墳丘はすくないですが、集落内に数基残ってます。  大きくても径20mほどの円墳で、埴輪、武器、馬具、人骨、金環などが出土。とくに木瀬村7号墳からは、鏡が出土した記録が残ってます。また、墳頂には安山岩製の小島田の阿弥陀如来坐像が鎮座し、説明板も建っており大切に保存されています。

植野薬師塚古墳

総社町15号古墳

利根川の右岸、吉岡町との境に位置する円墳で、総社古墳群に属します。現状、墳丘上は墓地となっており、石室石材が露出している状態です。  墳丘規模は、径21.5m、高さ2.4mを測ります。埋葬施設は、南方向に開口する横穴式石室で完全に埋没する。出土遺物は、人骨、鉄片が出土。築造年代は、6世紀に前半と推定される。

浅間神社古墳

こ 「古墳の上に 浅間神社」

利根川左岸の台地縁辺、横手町の民家敷内にある帆立貝型前方後円墳で、現在、前方部は削平され、後円部の一部が築山のような状態で残ってます。墳丘には浅間神社が鎮座し、富士山信仰(安産の神様)として古くから親しまれてきたようで、「下川淵カルタ」にも「こ」のところで登場します。  墳丘は、全長約42.2m、前方部高さ1.8m、後円部高さ6.1mほどで、周溝が巡り、埴輪が並べられていたようです。埋葬施設は、横穴式石室と推測され、一部石材の露出が認められます。築造年代は、古墳時代後期と推定。

清里村3号墳

池端町公民館裏の神明宮

利根川の右岸、前橋台地上に位置する径35.8m、高さ5.8mほどの大型円墳です。  池端町公民館裏の神明宮で、墳丘頂に社殿が建っています。階段の付く正面は、石垣などで墳丘の原形はとどめていませんが、背後に周ると古墳らしい形が見ることができます。他詳細は、不明。

王山古墳

「王山公園」として整備

利根川の西岸、前橋台地上に位置する前方後円墳で、総社古墳群に属します。現在は「王山公園」として整備されている。  墳丘規模は、墳丘長75m、後円部径50m、高さ4.5m、前方部幅63mを測り、24mほどの周溝が巡る。そして、墳丘には川原石の葺石を敷き詰め、埴輪の配列も認められる。埋葬施設は、全長16.37mの両袖式横穴式石室で、壁面に赤色顔料の施しがあったと指摘されている。  築造年代は6世紀初頭に推定され、総社二子山古墳を経て、最終段階の蛇穴山古墳に至るまで首長墓系列を辿ることができ、古代上野国の中心部であったことが伺われます。

稲荷塚古墳

大胡町25号古墳

この大胡地区には、42基の古墳がありましたが、ほとんどの墳丘が消滅するなか残ったうちの1基で、稲荷神社が鎮座しています。  墳丘は、径18.4mほどの円墳で、周溝が巡っていました。主体部は、横穴石室と考えられます。他詳細は、不明。

稲荷山古墳

餃子の王将 前橋問屋町店ウラ

利根川の右岸、前橋台地上に位置する円墳(前方後円墳)で総社古墳群に属します。総社町12号墳とも言われる。餃子の王将(前橋問屋町店)に隣接し、丁間稲荷大明神となっているため、墳丘らしさは残ってないのが現状です。  墳丘規模は、径径33m×21.4mの円形状と群馬県古墳総覧に記載されるが、前方後円墳とされる考察もあります。墳丘には、円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪が認められます。  埋葬施設は両袖式横穴石室で、副葬品として武器、武具、馬具、土師器、須恵器が出土する。築造年代は、6世紀後半と推定される。

筑波山古墳

平和観音が見守る

前橋市二之宮町の無量壽寺の真南に位置し、上武道路沿いにある前方後円墳です。かなり墳丘は変形をしてますが、高さが残っており平和観音が鎮座しています。  墳丘規模は、全長54.5m、高さ10.8mを測ります。荒砥村294号古墳とも呼ばれます。

経塚古墳

経を埋納したことに由来

広瀬川の右岸、東南端の市境に位置する円墳で、削平を受けてますが比較的かたちを保ってます。経を埋納したことから「経塚」と呼ばれ、信仰されるようになりました。  墳丘規模は、径30m 高さ3.2mを測り、葺石が確認されてます。また、周溝が巡っていたとされるが規模などは不明。埋葬施設は、未調査とされるが、横穴石室が推定される。

総社二子山古墳

ふたつの石室

利根川の西岸、前橋台地上に位置する前方部を西方向に向ける前方後円墳で、総社古墳群に属します。  墳丘規模は、墳丘長89.9m、後円部径44.2m、高さ7m、前方部幅60m、高さ8mを測り、群中最大規模を誇ります。墳丘は2段築成に葺石や埴輪が認められ、周溝が巡っていました。  埋葬施設は、前方部と後円部に横穴式石室が開口する。後円部石室は、榛名山二ッ岳噴出の角閃石安山岩を使用した五面削りの切石を互目積みにした両袖式の横穴石室で、全長9.4mの群馬県内最大級となる。現在、埋没して見ることが出来ない。前方部石室は、自然石を乱石積みした全長8.76mの石室で、後円部石室より規模が小さく、趣が異なります。使用石材、加工の点から、前方部石室が先行し、後続して後円部石室が構築されたと考えられる。  出土遺物は、前方部石室から頭椎大刀、鉄刀、刀子、勾玉、鈴釧、瓶、脚付長頸坩が出土する。築造年代は、6世紀末と推定される。

荒子杉山古墳

荒砥村の1号墳

荒子沼の西側、荒子町の集落内に位置する円墳で、現地説明板にあるように立派な一本杉が立っていたようです。そして、記念すべき荒砥村1号墳の遺跡番号が付けられています。  墳丘規模は、径30mほどで、周囲に周溝が確認されてます。埋葬施設は、輝石安山岩使用の切石積の両袖式横穴石室を備える。出土遺物は、土師器片、須恵器片が採取されてます。築造年代は、7世紀中頃~後半と推定。
bottom of page