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大津市

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唐臼山古墳

小野妹子の墳墓

志賀丘陵の湖岸に面した頂部に位置する古墳で、近江ほぼ全域を見渡せる眺望にあります。  明確な墳丘は確定しておらず、葺石、列石なども認められない。埋葬施設は、全長5.45m、幅1.6m、高 さ1.21mの大きな箱式石棺状の石室石材が露出しています。各石材は、1.5×2.5mほどの扁平な板石を使用し、奥壁1枚、東側壁3枚、西奥壁3-4枚、天井石4枚前後で構成され、石室入口の形状は、不明です。  出土遺物は、土師器片、須恵器片が出土。須恵器の杯身、杯蓋から京都市幡枝瓦窯跡と類似しているという事から7世紀前葉と推定される。  被葬者は、小野一族の高官の墳墓として間違いないと思われますが、小野妹子とする伝承は江戸時代以降の説となるため新しく、不確定要素が強いと考えられます。

袋古墳群

装飾付き須恵器が出土

比叡山の麓、坂本比叡山口駅の真北に位置する3基から成る古墳群です。現在は調査された後に、古墳公園として整備されています。  主体部は埋め戻されていますが、3基ともに横穴式石室です。副葬品として、おもに1号墳で装飾付き須恵器、2号墳でミニチュア炊飯具が出土。出土品から渡来系種族の古墳群と考えられます。築造年代は、6世紀後半と推定される。

高峰古墳群

三世代の墳墓

琵琶湖西岸、志賀丘陵の南端部に近い高橋川左岸丘陵頂部に分布する古墳群で、前方後円墳1基、円墳2基から構成され、三世代にわたって築かれています。現在、古墳公園として復元整備されている。  1号墳は、全長45mの前方後円墳で、葺石、埴輪が認められます。2号墳は、前方部に接するように径18mの円墳が位置します。さらに、北東に隣接して径6mの円墳がありました。築造年代は、5世紀後半と推定されます。  古墳群の下には、弥生時代中期の環濠を巡らせた高地性集落が営まれていた跡が確認され、高橋川を隔てた南側丘陵には、木の岡古墳群が分布しており、なんらかの関連性が注目されるところです。

木の岡古墳群

陵墓参考地の古墳群

比叡山系から琵琶湖に向かってのびる木の岡丘陵または大宮川北側の平地に分布する前方後円墳1基、帆立貝式古墳1基、円墳5基から構成される古墳群です。  丸山古墳(本塚)は、全長73mの帆立貝式古墳で、2段築成、葺石が認められるが、埴輪は確認されていない。墳頂平坦面は、径2.45m、段築幅は3mほどを測ります。天智天皇皇后とする伝承があり、陵墓参考地に治定されている。当古墳の東側には、ほ号墳(新塚古墳)、い号墳(御前塚古墳)、ろ号墳(首塚古墳)である円墳が隣接する。  茶臼山古墳は、全長84mの前方後円墳で周溝、葺石、埴輪が認められます。当古墳の前方部側には、かつて全長40m、後円部径21m、高さ2.5m、前方部幅10m、高さ1.5mを測る前方後円墳が存在していました。  さらに平野部には、車塚古墳、鹿道古墳の2基の円墳が分布しています。鹿道古墳だけは、陵墓参考地を唯一外れている。

福王子古墳群

福王子神社境内に分布

琵琶湖の西岸、滋賀丘陵や扇状地には数多くの古墳が群集しており、小野から皇子山に至る古墳総数が1000基に達するものと考えられている。当古墳群は、これらの古墳群中の一つで、福王子神社境内に分布する14基から成る古墳群です。  墳形は、円墳と考えられているが、墳丘が流失しているため規模や外護施設については定かではない。埋葬施設は、横穴石室を主体部とし、玄室平面形が方形に近い形状しており、顕著な持ち送りにて天井部がドーム状を呈する。  出土遺物は、少なく人骨、土師器、須恵器、刀子などが出土。築造年代は、6世紀代と推定され、各古墳ともに多少の幅があります。(1号・2号・6号・8号墳の各古墳詳細は別掲載)

将軍塚・馬場古墳

田園の浮島

瀬田川に流れ込む大戸川の北側、牧地区の田園の中に浮島と岩礁を連想させるかのように古墳が残ってます。  将軍塚古墳は円墳とされますが墳丘が流失し、イチョウの木が目印となります。すぐ北東に位置する馬場塚古墳は、横穴式石室の石材が露出しています。

赤塚古墳

倭神社

大津市滋賀里の倭神社が赤塚古墳そのものとなっている。ご祭神は、天智天皇皇后である倭姫と伝わる。小丘上の社殿改築の際、朱の付着が認められる花崗岩板石が5~6枚発見されたことなどから古墳と考えられ、その被葬者が倭姫だとする伝承が伝わりました。その後、江戸期になって赤塚大明神として再興される。  墳丘は前方後円墳と考えられてきたが、近年の測量調査で径30-40mほどの円墳とも指摘される。築造年代は、5世紀前半と推定される。

枝1号墳

8基から成ります

瀬田川に流れ込む天神川左岸の丘陵先端東斜面に位置する円墳で、8基から成る古墳群に属します。丘陵上は住宅開発され、東側の一部が林として取り残された所があり、1号墳が石室露出した状態で残されてます。  他にも古墳群で、1号墳を含めて7基が横穴石室が採用されていることが確認されている。出土遺物は、耳環、腕輪、須恵器、土師器が出土しています。築造年代は、6世紀後半と推定される。

宇佐山古墳群

八幡神社参道脇尾根上に分布

宇佐山の東斜面、宇佐八幡神社から中腹にかけて参道脇尾根上に分布する古墳群です。今までに6世紀代を中心とした円墳13基が確認されてます。状態の良い墳丘は、ほぼ皆無で11号墳と12号墳で大きく陥没した墳丘を確認しています。  13号墳(画像なし)では、完全な状態で箱式石棺が出土しており、人骨が確認されてます。被葬者は、やや小柄な155㎝前後の20~40才代の男性と推測されます。石棺の規模は、内法長158㎝、幅24~36㎝、高さ30㎝を測り、内面に赤色顔料が残っていました。出土遺物は、人骨のほか、鉄剣、鉄鏃数点、砥石が出土。築造年代は、5世紀前半と推定される。

新免古墳群

吉祥寺谷周辺に分布

新免集落から東の吉祥寺谷に入って行った辺りに分布する10基ほどの古墳群です。状態の良い墳丘は数基のみで、石室が残っているのが1基です。  1号墳は、径15mほどの円墳で、比較的に良好に残っており、石室石材も確認できます。2号墳は、径12mほどの円墳で、わずかに開口する隙間から小型の玄室を確認することができます。

若松神社境内古墳

亀甲型陶棺が出た!

瀬田丘陵から琵琶湖に向かって北西の小丘陵最先端部に位置する円墳で、前面に琵琶湖が見渡せる好立地にあります。現在は、若松神社境内となっており、石室基底部が残されております。  墳丘規模は、径15mほどで、全長8.8mの両袖式の横穴式石を主体部とする。当地域では、大変珍しい亀甲型陶棺が納められており、レプリカで再現されています。  出土遺物は、金環、土師器、須恵器が出土。築造年代は、7世紀初頭と推定される。

北小松古墳群

4支群12基

大津市北小松にある同志社びわこリトリートセンターの丘陵に分布する古墳群で、4支群12基で構成されてます。センター内の支群は現在公開していないという事です。  A-1号墳は、径12mの円墳で、右片袖式横穴式石室の横穴石室が主体部となってます。玄室長4.1m、幅1.92m、高さ1.76m、羨道幅0.95mの丁寧に積まれた石室を見ることが出来ます。

皇子山古墳

5基の埋葬施設

琵琶湖西岸、皇子山と言われる独立丘陵最高所に位置する前方後方墳です。当古墳の北東には、径20mの円墳の2号墳が分布する。  墳丘規模は、墳丘長60m、後方部幅35m、前方部幅28mを測ります。墳丘には、葺石が認められ、復元整備が行われている。葺石の間からは、土器がみつかってます。  埋葬施設は、未調査ですが後円部に4基、前方部に1基と考えられてます。築造年代は、土器片から4世紀後半と推定される。

国分大塚古墳

前後に横穴石室

瀬田川の右岸、東海道新幹線と名神高速道西宮線に挟まれた大津市国分の住宅地に残る前方後円墳です。  墳丘規模は、墳丘長45m、後円部径32m、高さ1.75m、くびれ部幅19m、前方部幅28m、高さ1.75mを測り、葺石、埴輪は認められません。墳丘周囲には、周溝が巡っていました。  埋葬施設は、前方部と後円部に花崗岩を用いた横穴式石室が開口します。前方部石室は、羨道部が失われているため全長は不明ですが、玄室長2.9m、幅1.2~1.6m、高さ0.9mを測ります。後円部石室は、両袖式で全長6.6m、玄室長4.4m、幅2.1m~2.15m、高さ1.6m以上、羨道長2.2m以上、幅1.5m、高さ0.9mを測ります。築造年代は、6世紀中葉と推定される。

中山古墳群

8基の古墳群

大津市坂本、県道47号線から西に入った林の中に位置する古墳群で、ちょうど地図で見ると穴太野添古墳群の真北に分布することになります。  古墳群自体は状態の良いものはなく、墳丘が陥没したり、石室石材の一部が残っている程度です。8基からなる古墳群とされるが、確認できるものは数少ない。

矢倉古墳群

窮隆式天井必見!

琵琶湖の西岸、大津市坂本に位置する古墳群です。穴太野添古墳群から県道47号線を北に行くと喫茶店手前の小道を西に上がって行くと石室が開口してます。  窮隆式石室は、玄室長3.3m、幅2.9m、高さ3.6m、羨道長3.9m、幅1.6m、高さ1.1mを測り、規模は平凡ですが、持ち送りがあって、小さな石材が蓋で被せた様に天井部を塞いでます。  北西尾根上には、数基の墳丘が存在しますが状態の良いものは、最初に出会うこの1基のみです。

石釜古墳群

石材供給地

曼荼羅山丘陵から北東に尾根北端頂部に分布する14基から成る古墳群です。谷を挟んでヨウ古墳群と向かい合い、曼荼羅山古墳群の一支群と考えられます。  ほとんどは、尾根の頂部に位置する。墳形は、径10~18mほど円墳で横穴式石室を主体部とする。横穴石室が開口するものは、2号墳で径13m、高さ2mの円墳です。南東に開口する花崗斑岩を用いた長方形の石材を丁寧に積んだ石室です。隣接するヨウ古墳群、曼荼羅山古墳と類似する。  なお、2号墳の南側に石室石材を切り出した石切り場が存在していて、周辺の古墳群への石材供給地だったと考えられます。

来迎寺阿弥陀三尊石棺仏

聖衆来迎寺に安置

琵琶湖畔に位置する天台宗寺院の聖衆来迎寺にある阿弥陀三尊石棺仏です。  来迎寺は、最澄によって創建され、平安時代初期に源信が念仏道場として聖衆来迎寺と改称したといわれてます。境内にある覆い屋中央に石棺仏は、鎮座します。花崗岩製家形石棺の蓋を加工して造られた石棺仏は、縦1.45m、幅1.1mほどを測ります。石棺自体は、古墳時代のものですが阿弥陀三尊石棺仏おいては、鎌倉時代に彫られたと考えられてます。

道風神社古墳群

道風神社裏に2基

大津市小野にある道風神社社殿裏の尾根上に分布する2基から成る古墳群です。小野道風神社は、重要文化財指定を受け、菓子・餅の祖神とされる。  1号墳は、全長34m、後円部径17mの前方後円墳。2号墳は、径28mの円墳です。両古墳は、隣接して分布しています。

石神古墳群

岩上神社周辺に分布

大津市小野、岩上神社周辺に分布する4基からなる古墳群で、2基が横穴石室が開口しています。  1号墳は、両袖式横穴石室という事ですが、神社の灯篭がある石棺の蓋と底石が残っているのみです。2号墳は、径10m、高さ2.4mほどの円墳です。3号墳は、径10mほどの円墳で、両袖式横穴石室がほぼ露出状態となって大きく口を開けてます。4号墳も両袖式横穴石室で、開口部が狭くなっていますが、なかは良好に残っています。  出土遺物は、1号墳で須恵器蓋、坏身、提瓶が出土。築造年代は、7世紀前半と推定。ほか2号墳~4号墳は、6世紀後半と推定される。

長尾池ノ内古墳

高砂古墳公園に残る

大津市高砂町、高砂古墳公園に残る古墳で、公園内の小さな社の反対側に横穴式石室の石材が露出しています。もとは19基から成る古墳群でしたが、最後の1基となってます。

園山古墳群

園山稲荷境内に分布

大津市園山にある園山稲荷神社境内に分布する古墳群で、丘陵地に小さな墳丘が点在し、公園整備され見学しやすくなってます。  墳丘は、径10m~15mほどの円墳で、横穴石室を主体部とする。現在、残っている墳丘は柵で囲われ、かなり小型化しているようです。

横尾山1号墳

檜山神社境内に移築

瀬田川の右岸、横尾山古墳群に属している1基です。丘陵尾根西端の最高所に分布しており、瀬田川を見下ろすことができ、隣接する20号墳と並んで最も目につきやすい位置にありました。現在は、神領にある檜山神社境内に移築されてます。  墳丘規模は、北側底部長10m、西側底部長8.5m、東側底部長7m、前面基底部長12.5mを測り、瀬田川から見上げた時に大きく見せるよう台形長方墳に近い形状を成している。また、墳丘には周溝が巡っていました。埋葬施設は、巨大な切石を用いた南に開口する横穴式石室で、玄室長2.6m、 奥壁幅1.2m、 玄室入口幅1.15m、羨道部長1.4m、羨道部幅1.13mを測ります。  出土遺物は、耳環、刀子、円盤状飾金具、鉄釘、須恵器が出土。築造年代は、7世紀代と推定される。

穴太野添古墳群

渡来人が眠る墳墓群

比叡山の東側の山麓に築かれた群集墳で、坂本から錦織にかけて分布しています。盛安寺の墓地辺りを中心に見学が出来るようになっており、説明板も設置されてます。  12号墳は、石室基底部が残っていて、玄室長2.8m、幅2.1m、高さ2m、羨道長4.2m、幅1.3m、高さ1.5mを測ります。羨門部から意識的に割られた土師器甕が出土している。築造年代は、6世紀末~7世紀初頭と推定。  16号墳でも石室基底部が残っていて、玄室長3.1m、幅2.1m、高さ2.4m、羨道長6m、幅1.1-1.4m、高さ1.5mを測り、玄室と羨道一部に敷石が施されていました。また、棺台と思われる平らな石材も確認されてます。築造年代は、6世紀末と推定。  石室構造やミニチュア炊飯具などの副葬品から、渡来人系の墳墓群であると考えられています。

大伴古墳群

大伴黒主神社に分布

琵琶湖の西岸、滋賀丘陵や扇状地には数多くの古墳が群集しており、小野から皇子山に至る古墳総数が1000基に達するものと考えられている。当古墳群は、これらの古墳群中の一つで、福王子古墳群の北側に隣接した大伴黒主神社境内に分布する古墳群です。古墳の状態が悪く、確実に墳丘と判別するのが困難となってます。

百穴古墳群

大伴村主氏の奥津城

比叡山の東麓、滋賀里西方の山中越の旧道沿いに分布する群集墳で、径10m前後の円墳が100基ほど存在しており、大伴村主一族の奥津城ではないかと考えられています。現在は、状態の良いものは少なく数基の横穴式石室が残っている。  横穴石室は、天井がドーム状を呈しており、花崗岩製のくり抜き式石棺が安置されているものも残っています。さらに、12号墳では、左側壁の奥壁側に側壁石材を15㎝程スライドさせて空間を作り出しており、竈を意図しているのではないかと考えられています。  古墳群からは、ミニチュア炊飯土器、土師器、須恵器、金環、銅腕輪などが出土している。築造年代は、6世紀後半~7世紀代と推定される。

西羅1号古墳

琵琶湖の帆立

堅田丘陵の東端部、天神川と御呂戸川との間の入り組んだ丘陵高所に位置する帆立貝式古墳で、2号墳の方墳とで古墳群を形成していました。現在は、新興住宅地の中に残ってます。  墳丘規模は、全長46m、後円部径32m、高さ3.5m、前方部幅12mを測り、主軸を東西に向け、葺石が認められる。主体部は、未調査のため不明。築造年代は、5世紀の後半と推定される。

平石古墳

終末期の方墳

木の岡丘陵の背尾根筋に位置する方墳で、現在は石室が露出している状態となっている。   墳丘規模は、南北5m、東西14mを測ります。埋葬施設は、残存長3.37m、幅1.4mの横口式石槨を備えていて、石槨形状が志賀町の小野妹子の墳墓と類似してます。  土師器が副葬品として出土しており、築造年代は7世紀後半と推定されます。

日吉古墳群

日吉大社東本宮周辺に分布

八王子山の東麓一帯に分布する68基からなる古墳群で、日吉大社東本宮の境内を中心に確認することが出来ます。こちらも穴太野添古墳群と同様に渡来人系の墳墓群であると考えられています。  墳丘規模は、径5m~18mほどの円墳で、横穴式石室を主体部とする。状態の良いものは少ないが、社殿裏には、説明板を設置した横穴式石室を見ることが出来ます。日吉大社参拝とセットで見学することをお薦めします。

御殿浜古墳群

膳所藩主別邸・瓦ヶ浜御殿跡

幕末の尊王攘夷運動に殉じた膳所藩別邸として江戸時代初期に営まれた瓦ヶ浜御殿跡にある本多神社境内に残る2基の古墳群です。別名「本多神社古墳」とも石碑に刻まれてます。  東側と西側に古墳があって、東側墳丘には「本多神社古墳」と石碑が建っており、石室石材が散乱し、石棺らしきものも見受けられます。西側墳丘は、横穴石室が開口し、石棺仏が安置してあります。両古墳ともに後世になって改変されているため、どこまでが当時のものなのかは不明です。

茶臼山・小茶臼山古墳

茶臼山公園内とし保存

琵琶湖の南岸、音羽山から北東に派生する丘陵先端部に位置する前方後円墳と円墳です。現在は、秋葉台の住宅地に囲まれた茶臼山公園とし整備保存されてます。  公園西側の茶臼山古墳は、墳丘長122m、後円部径70m、高さ8m、前方部長60m、幅58mの前方後円墳で、円筒埴輪、形象埴輪を備えていました。築造年代は、4世紀末~5世紀初頭と推定される。被葬者は、弘文天皇陵や近江国造の祖、彦坐王との伝承があります。東側の小茶臼山古墳は、径18m、高さ2.5mの円墳で、陪塚とも考えられている。

桐畑古墳群

熊ケ谷古墳群

琵琶湖の西岸、滋賀丘陵や扇状地には数多くの古墳が群集しており、小野から皇子山に至る古墳総数が1000基に達するものと考えられている。当古墳群は、これらの古墳群中の一つで崇福寺や岩屋不動尊の西側裏山に分布する10基から成る古墳墳です。すぐ南側には、百穴古墳群は隣接します。  古墳群の中でも、盟主的な存在を誇るのは、一番麓にある1号墳で、径20mほどの円墳です。主体部は、玄室天井石を失ってますが、南東に開口する巨石利用の両袖式横穴式石室で、玄室長5m、幅3.1m、高さ3.6m以上、羨道長6m、幅1.4m、高さ1.6mを測り、背の高い石室となっています。また、玄室奥壁には、お不動さんが祀られてます。  この他、西側の緩やかな丘陵には、2号・5号・7号墳で横穴石室が開口しており、持ち送りの付いた石室を見ることができます。

和邇大塚山古墳

曼荼羅山古墳群

真野川と和邇川に挟まれた低丘陵中央に、南北に細長く曼陀羅山丘陵が位置します。現在。曼荼羅山を中心として東西に琵琶湖ローズタウンが広がります。古墳群は、曼陀羅山の尾根上、斜面に築かれ、5支群117基からなる。そのほとんどが横穴式石室を主体部とする円墳で、当古墳は琵琶湖を見渡す丘陵最高所にある前方後円墳である。曼荼羅山には散策コースがあり、ローズタウンにも所々に古墳が残されていて、古墳群と街並みがうまく調和のとれた環境となっている。  墳丘規模は全長82mで、2段築成、葺石が認められ、前方部を撥型に開く古いタイプとなる。埋葬施設は、粘土槨に割竹形木棺が納められていました。  副葬品は、盤竜鏡、銅鏃、鉄剣、鉄刀、銅鏃、甲冑、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、鉄斧が出土。築造年代は、4世紀後半~5世紀初頭と推定されます。

大塚山北1号墳

曼荼羅山古墳群

南北に細長い曼陀羅山丘陵の尾根上、和邇大塚山古墳の北側に分布する3基からなる古墳群です。  1号墳は、径20mほどの円墳で、横穴石室の奥壁部分が残存している。さらに、北側に2号墳と3号墳が分布するが不明。

曼荼羅山5号・34号墳

曼荼羅山古墳群

真野川と和邇川に挟まれた低丘陵中央に、南北に細長く曼陀羅山丘陵が位置します。現在。曼荼羅山を中心として東西に琵琶湖ローズタウンが広がります。古墳群は、曼陀羅山の尾根上、斜面に築かれ、5支群117基からなる。曼荼羅山には散策コースがあり、ローズタウンにも所々に古墳が残されていて、古墳群と街並みがうまく調和のとれた環境となっている。  5号墳は、径15m、高さ5mほどの円墳で、曼荼羅山丘陵から西側住宅地内に真野北古墳公園として残されてます。奥壁が失われてますが横穴石室が鉄柵越しに見学できるようになってます。副葬品として刀、鉄鏃、ガラス製勾玉、水晶製勾玉が出土しています。  34号墳は、径11m、高さ2.5mほどの円墳で、曼荼羅山丘陵の北側、ゴルフ場フェンス沿いの林の中に位置する。埋葬施設は、玄室長3.1m、幅1.4m、高さ1.4mの横穴石室が開口します。この他にも住宅地内には、数基の古墳が残されています。

ゼニワラ古墳

曼荼羅山古墳群

真野川と和邇川に挟まれた低丘陵中央に、南北に細長く曼陀羅山丘陵が位置します。曼荼羅山古墳群は、曼陀羅山の尾根上、斜面に築かれた5支群117基から構成される。当古墳は、山の麓にある朝日集会所裏を登った所にある円墳です。  墳丘規模は、径20.5m、高さ5mを測ります。主体部は、玄室長4.42m、幅2.17m、高さ2.45m、羨道長4.3m、幅1mの左片袖式横穴石室を備え、群中最大規模を誇ります。  須恵器の坏身が出土しており、築造年代は、6世紀第Ⅲ四と推定される。6世紀の中頃に小野・和邇地域で活躍したの有力豪族の墳墓と考えられます。

曼荼羅山北3号・4号墳

曼荼羅山古墳群

南北に細長い曼陀羅山丘陵の尾根上の北端に分布する5基からなる古墳群です。和邇大塚山古墳から北側に 大塚山北古墳群を経て、さらに北側に位置します。実際に確認できたのは、3号・4号墳の2基のみとなる。  4号墳は、径20mほどの円墳で、右片袖式の横穴石室が開口する。玄室長4.4m、幅2m、高2m、羨道長2.4m、幅0.9mを測ります。隣接する3号墳も円墳ですが未開口のようです。

春日山古墳群1

E支群

琵琶湖の西岸、比叡山丘陵麓から派生し堅田丘陵の東端部である春日山に分布する古墳群です。古墳群は、A支群 ~ K支群の11支群にで構成され、総数200基を超えてくる大群集墳で和邇氏の墓域と考えられてます。なかでもE支群には前方後円墳2基を含み計30基を超え、国指定史跡とされている。また、周辺は県営春日山公園として市民の憩いの場となっています。  春日山古墳(1号墳)は、全長65m、後円部径32m、高さ6m、前方部長25.4m、前方部幅20m、高さ3.5mの前方後円墳で、埋葬施設は木棺直葬と推測される。もう1基の前方後円墳は、最近まで円墳とされてきた12号墳で、全長54m、後円部径27m、前方部幅15mを測ります。埋葬施設は、こちらも木棺直葬と考えられます。ほか円墳群は、横穴式石室を中心に箱式石棺、木棺直葬が一部あります。築造年代は、5世紀中頃と推定される。

春日山古墳群2

A支群

琵琶湖の西岸、比叡山丘陵麓から派生し堅田丘陵の東端部である春日山に分布する古墳群です。古墳群は、A支群 ~ K支群の11支群にで構成され、総数200基を超えてくる大群集墳で和邇氏の墓域と考えられてます。周辺は、県営春日山公園として市民の憩いの場となっています。  A支群は、古墳群の中でも比較的に見学がしやすい支群で、遊歩道で古墳の側まで行けるのもあります。墳丘は、円墳で横穴式石室を主体部とする。現状は、ほとんどの石室が崩れた状態のものが多く、完存するものはないと思われます。  築造年代は、E支群の5世紀中頃から始まり、7世紀前半まで継続して築造されたと推定される。
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