top of page

倉敷市

田の口荒神四つ塚古墳

4基の古墳群

倉敷市児島田の口に残る4基から成る横穴式石室を主体部とする古墳群です。  1号墳は、荒神社の境内に横穴石室が露出して、金網に囲まれて保存されてます。2号墳は、民家下の石垣に開口し、鉄扉が付いてますが入室可能です。3号墳は、民家の裏庭に残っており、石室が貫通している。墳丘がほぼ流失しており、石材が露出している。上から見た姿が亀ににていることから亀塚と呼ばれているようです。4号墳は、石垣で囲まれた階段がついた高台に木が茂った状態で残されています。

丸山古墳

田の口の前方後円墳

倉敷市児島田の口、琴浦湾に面する丘陵上に位置する前方後円墳です。現状は、それとわかる墳丘の高まりが残ってます。他詳細は不明。

内山池古墳群4号墳

4基の古墳群

鳥ヶ嶽山城のある丘陵東側の麓に分布する4基からなる古墳群です。4号墳は、道路から開口部が見通せます。内山池のある北側林の中にも1号墳の石室が開口しているようです。南北に離れて分布しているので、城山古墳群と合わせて見学するのがお勧めです。

箭田大塚古墳

岡山県三大巨石墳

東西に流れる小田川北岸の丘陵端部に位置する大型の円墳です。東側に倉敷美袋線を挟んで中之池があります。  墳丘規模は、径46mを測り、周溝を含めると径50mを超えます。そして、墳丘には段築、埴輪、造出を備える。埋葬施設は、南東に開口する全長19.1mの長大な両袖式横穴石室を有しており、牟佐大塚古墳(岡山市)、こうもり塚古墳(総社市)とで、岡山三大巨石墳の一つとされています。玄室には、さらに3基の組合式石棺が奥壁側と西側壁側に納められておりました。現在でも、そのうち1基を見学することができます。  出土遺物は、単龍環頭大刀柄頭、単鳳環頭大刀柄頭、鉄鏃、金環 、勾玉、丸玉、小玉、杏葉、鞖金具、辻金具、須恵器( 坏身、有蓋高坏、𤭯、装飾壺、台付壺、器台)、土師器などが出土する。築造年代は、出土した須恵器から、6世紀後半頃に築造され、7世紀初頭まで追葬が行われたと考えられます。

西の谷古墳群2号

いつの間のに通過

高梁川の右岸、大円寺と荒神社に挟まれた丘陵上に位置する古墳で、数基から成る古墳群を形成しているようです。  墳丘規模は、径15m、高3mほどの円墳で、両袖式の横穴石室が西向きに開口します。開口部は、土砂が堆積しており、かなり狭くなっている。出土遺物は、須恵器が出土。他詳細は不明。

こうもり塚古墳

全長11m良好な石室

高梁川の右岸、鬼邑山城や馬入堂山城のある丘陵上に残る古墳です。同丘陵上には、室奥古墳群(岡田古墳)や妙見古墳群などが分布しています。別名「仙人塚古墳」とも言われます。  かつては、前方後円墳とされてましたが、現在、前方部は確認することができず墳形は不明となっている。埋葬施設は、片袖式の横穴石室が南東方向に開口する。奥壁は、大き目の石材を下段に用いて、3段に長方形の石材を積み上げる。羨道部までも良好に残っており、全長11mを測ります。

室奥古墳群

4号墳(岡田古墳)

高梁川の右岸、鬼邑山城や馬入堂山城のある丘陵南側に数基から成る古墳群です。同丘陵上には、こうもり塚(仙人塚)や妙見古墳群などが位置します。  最下方に位置する1号墳(画像なし)では、小型の横穴石室が開口し、石室残存長2.5m、幅1mを測ります。2号墳では、石室石材が一部露出する。3号墳でも小型の横穴石室が開口する。4号墳の岡田古墳では、石室基底部が露出し、天井石が一部残ります。

妙見古墳群 

妙見3号墳

高梁川の右岸、鬼邑山城や馬入堂山城のある丘陵南側の妙見池へ派生する丘陵先端部に分布する3基から成る古墳群です(1号・2号墳不明)。さらに上方には、こうもり塚(仙人塚)や室奥古墳群(岡田古墳)が位置する。また、西側には「クレヨンしんちゃん岩」なるものも存在する。  3号墳は、径12m、高さ2.5mの円墳で、無袖式の横穴石室が南に開口する。開口部は、非常に狭いが玄室は良好に残ってます。石室規模は、玄室現存長3.5m、幅1.2m、高さ1.2mを測り、羨道は山道によって削平される。

黒宮大塚古墳

2基の弥生墳丘墓と判明

東西に流れる小田川の左岸、小田川に向かって北から南に突き出た丘陵上に分布する2基の弥生墳丘です。以前は、全長60mほどの前方後方墳ではないかと考えられていましたが、詳しい調査が行われ隣接した2世紀後半頃の弥生墳丘墓と判明する。現在は熊野神社が鎮座しています。  墳丘規模は、1号墓で短径30mほど楕円形墳、2号墓で長辺12m、短辺10mの長方墳となっている。この時期では楯築遺跡に次ぐ規模となっており、全国的に見ても最大級の墳墓と言えます。  1号墓の墳頂からは、竪穴式石槨が確認され、中軸部が窪んでいることから割竹形木棺が納められていたと推測されています。出土遺物は、勾玉、管玉、特殊壷形土器、器台、台付壷、高坏が出土する。

土地衛古墳

土地衛池の南側墓地

吉備八十八箇所54「地鎮」のある道路から南西谷奥に入った辺りに小さな土地衛池があります。その北側墓地の道路沿いに横穴石室が開口しています。  墳丘は、ほぼ流失し墓地にとけ込んでます。石室前には、お地蔵さまが祀られており、地元には言い伝えが残っているそうです(メモに別記)。石室規模は、石室残存長3.2m、幅1.5~1.65m、高さ0.9mを測り、現在は土嚢で塞がれて奥壁を確認できない状態となってます。

尾崎古墳群

十数基分布する

黒宮大塚古墳から北西方向、真備坂根上団地の北側丘陵及び西側丘陵の麓に十数基分布する古墳群です。横穴式石室を主体部とする群集墳で、中でも団地北側丘陵麓には、奥壁におむすび型の石材を据えた良好な石室が残っています。

城山古墳群

特徴ある山の麓

鳥ヶ嶽山城跡のある丘陵の麓に分布する十数基から成る古墳群です。遠くからでも一目でわかる特徴ある山が見通せるので、道路からすぐたどり着けると思います。  横穴石室を主体部としており、個々に様々な印象をもつ石室を見ることができます。特に3号墳では、立派な石室が残ってます。

古城池南古墳

製塩・漁労集団

倉敷市街地の南部、南北に連なる種松山山系の北西部の南斜面に位置する古墳です。かつては、瀬戸内海に浮かぶ大きな島でした。倉敷市街から水島へ抜ける古城池線の南側の丘陵先端部の林の中に残されてます。  墳丘規模は、径9mほどの円墳で、横穴式石室を主体部とする。石室は、西方向に開口する片袖式の横穴式石室で、全長5.8m、玄室長3.9m、幅1.7m、高さ1.8m、羨道長2.5m、幅1m、高さ1.3mを測ります。玄室では、横長の石材を丁寧に積み上げ、羨道部では不定形の石材を不規則に積み上げています。吉備地方では、比較的に古い石室と考えられます。  出土遺物は、鉄鏃、不明鉄器、土師器、須恵器が出土。築造年代は、6世紀後半と推定される。  児島の西岸には、砂州ごとに海浜生活を営む集団が形成されており、その背後の丘陵上に古墳群が形成される傾向が見られる。当古墳も同様の条件を持つことから、製塩や漁労などに関わりの持つ集団の首長の可能性が考えられます。

高塚古墳・奥谷古墳

ちょっぴりステルス系

種松山の山系から西へ分岐して派生する丘陵上に分布する古墳です。  奥谷古墳は、丘陵頂部のにある鉄塔横の藪中に残る片袖式の横穴石室で、南に開口します。高塚古墳は、南西に丸く出る尾根端部に位置しており、民家と墓地との間に両袖式の横穴石室が開口してます。

湾戸古墳群

海浜生活を基盤

種松山の山系から西へ分岐して派生する尾根筋の南斜面に分布する7基から成る古墳群です。現在は、1号・2号・5号・6号墳では、小型ながらも横穴石室を確認することができます。(3号・4号破壊消滅、7号墳老人ホーム建設の為調査後消滅)  調査後消滅した7号墳は、径13mほどの円墳で、周溝を備えていました。埋葬施設は、復元推定で全長8m以上、幅は2m、高さ2mを測ります。出土遺物は、須恵器が出土。このほか土壙の上部から古墳時代のものではない10世紀中頃の黒色土器椀が出土しており古墳の再利用が行われていたことが.わかっています。築造年代は、6世紀後半~末と推定される。  当古墳群のある丘陵下には、古墳時代の砂州が南北に長く延びており、砂州上には製塩遺跡の湾戸遺跡が存在する。そこから考えられるのは、一部で農業も行われていたが、土器製塩を生業とした海浜生活を中心とするものであったと推測されます。

広江北地西2号墳

ほどよい持ち送り

FEスチール(株) 西日本製鉄所倉敷地区広江クラブの南側丘陵尾根上に位置する古墳です。さらに南東に尾根を下った位置に2号墳も分布しているようです。北側丘陵麓近くの林の中には、横穴式石室を主体部とする三軒屋古墳群が残ってます。  墳丘は、径10mほどの小ぶりな円墳で、南に開口する両袖式の横穴石室を主体部とします。石室は玄室長4m、幅1.8mを測り、持ち送りのある側壁が目に付きます。

三軒屋古墳群

6基の古墳群

水島緑地福田公園の東側丘陵麓付近の林の中に残る横穴式石室を主体部とする古墳群です。東側にはJFEスチール(株) 西日本製鉄所倉敷地区広江クラブや配水タンクがあります。その南側丘陵には、広江北地西古墳群が分布する。  6基から成る古墳群ですが、5号・6号墳は未確認です。1号から4号は、道路沿い南側の林にほぼ東西に並びます。1号墳では小型ながら立派な石室が残ってます。

広江南地古墳群

鷲羽山の北端に分布

鷲羽山の北端部にある横穴式石室を主体部とする古墳群で、3基確認することができます。南側の丘陵中腹には、磐座群が位置しており、古代から神聖の場として扱われていたのでしょうか。  1号墳は、南西方向に開口する横穴式石室で、石室が露出する。前面は崩壊しているが、奥壁、側壁ともに良く残っている。2号墳は、果樹園の西側に位置しており玄室の残りが比較的の良好で、西向きに開口する。3号墳は、竹林内に崩壊した石室が露出する。開口部は東方向となる。

仁万大塚古墳

高梁川西岸で最終段階

真備町を東西に流れる小田川と高梁川の合流点をのぞむ南山から西へ派生する丘陵南端部に位置します。  墳丘は、墳丘長38mの前方後円墳で、北側くびれ部に造出を備え、円筒埴輪、人物埴輪、家形埴輪が並べられていました。高梁川西岸で最終段階唯一の前方後円墳と言われています。埋葬施設は、南西に開口する両袖式の横穴石室で全長9.1m、玄室長4.69m、幅2.24~2.48m、高さ2.5m、羨道長4.41m、幅0.83~0.88m、高さ1.4~1.65mを測ります。横穴式石室を備えた前方後円墳では吉備地方では、最も古い段階の築造であることがわかってます。  出土遺物は、獣形鏡 、直刀、 大刀、小刀、蕨手状柄付鉄器、鉄鏃、胡簶、銅釧、耳環、 玉類、馬具、鉄釘、 須恵器、土師器など多くのものが出土しています。築造年代は、6世紀中葉とされ、6世紀中頃から6世紀後半まで追葬がされたと考えられます。

摩利支天塚古墳

岡山学院大学の丘陵

岡山短期大学の南東側の竹林に残る石室墳で、南東に開口する横穴式石室がほぼ露出状態となっている。開口部は、かなり狭くなっているが、比較的大き目な6枚の天井石と奥壁は現在でもしっかり残されている。築造年代は、古墳時代中期と推定。

天狗山古墳

貴重な挂甲・胡禄が出土

高梁川と小田川の合流地点西側、南山丘陵上に位置する帆立貝式古墳です。同丘陵上の東端部には、南山城が存在しています。  墳丘規模は、周溝や周堤を含めると全長85mにも及びます。周溝は、盾形の形状を呈しています。埋葬施設は竪穴式石室で、石室長4m、幅1m、幅0.82mを測り、組合式木棺が納められていました。  出土遺物は、変形獣形鏡、勾玉、櫛、大刀、剣、刀子、鏃、挂甲、筒籠手、胡簶、f字型鏡板轡などの馬具が出土。なかでも筒籠手までが残っている挂甲や金銅製胡禄金具などは大変貴重な副葬品とされ、東京国立博物館に所蔵されています。築造年代は、5世紀後半とされる。  総社の造山古墳・作山古墳などの巨大墳墓を築いた大勢力が衰退したころに出現した古墳であり、吉備における勢力図の交代を伺える古墳の一つと言えます。

行願寺裏山古墳

以前は円墳とされいた

高梁川の左岸、福山山塊の南端部の丘陵上に築かれた前方後円墳ですが、以前は円墳とされていました。現在は、真言宗御室派の寺院である行願院に境内に残される。円墳とされていたほど墓地等によって著しく改変を受けている。後円部には、三十三ヵ所巡りが祀られており、参道が巡る。さらに南東側は行願院本堂によって削平されてしまっている。  墳丘規模は、全長75m以上、後円部径55m (頂部平坦面径20m)、 高さ8.5m、前方部長30m以上、高さ4mを測ります。墳丘からは、円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪などの破片が確認されている。このほか前方部側から須恵器が出土する。築造年代は、古墳時代中期と推定される。

西坂古墳

山陽道建設の際、移築

山陽自動車道吹田山口線と国道429号線が交差する南西丘陵の麓に上西坂霊園があります。古墳は、その霊園に山陽道建設の際に移築復元されています。  墳丘は、径17m、高さ2mほどの円墳です。埋葬施設は、全長9.3mの右片袖式の横穴石室で、木棺が納められていました。  出土遺物は、刀子、鉄鏃、須恵器、土師器が出土。築造年代は、6世紀後半と推定される。

二子14号墳

7世紀中頃の終末期古墳

岡山平野の西端、仕手倉山から東に派生する丘陵の南斜面高所に単独で築かれた段築のついた終末期の方墳です。山陽自動車道建設に伴って、山陽道の東側に移築復元されています。かつては、近隣には、日畑廃寺の存在から何らかの関係性が考えられており、大和政権に従属した被葬者が推定されています。  二段築成の方墳は、東西13m、南北12.7m、高さは2mを測り、外表に石垣を巡らしています。埋葬施設は、南に開口する横穴式石室で、全長7.4m、玄室部長4m、幅1.4m、高さ1.5m、羨道長2.7m、幅1.6mを測ります。このように玄室幅より羨道幅が広い形状は、当古墳の他に総社市の長砂2号墳の存在が認められます。  出土遺物は、釘、須恵器蓋、高杯、土師器などが出土。築造年代は、7世紀中頃と推定される。

矢部大ぐろ古墳

矢部17号墳

足守川の右岸、日差山の北東丘陵尾根上に位置する古墳で、81基から成る矢部古墳群に属します。矢部17号墳と番号が付けられ、群中唯一の前方後円墳です。  墳丘規模は、全長47m 後円部径26m、高さ4.8m、前方部幅21m、高さ2.5mを測ります。墳丘には、葺石や特殊器台形埴輪、特殊壺形埴輪などが備えられていました。埋葬施設は、全長4.3mほど竪穴式石室とされます。  出土遺物は、埴輪のほかに鉄剣が出土している。築造年代は、3世紀末~4世紀世紀初頭と推定される。

鯉喰神社墳丘墓

鬼退治ここにあり

足守川と西国街道が交差する南西側、東から西へと延びる丘陵先端部に位置する弥生の墳丘墓です。南西およそ700mほどの所には同じく弥生の墳丘墓である楯築遺跡があります。当墳丘墓上は、鯉喰神社となっており、桃太郎伝説の原形となる温羅(鬼)退治の話が伝わっています(メモに別記)。  墳丘規模は、東西40m、南北32mの長方形を呈しています。埋葬施設は、いまだだ詳しい調査が行われてませんが、竪穴式石槨が推測されている。  出土遺物は、楯築弥生墳丘墓でも出土している弧帯文石や特殊器台、特殊壺、土器などが確認されている。築造年代は、3世紀後半と推定される。

笹池東古墳群

1号巨石を整然と組み上げ

倉敷市西坂の笹池の東側丘陵上に位置する横穴式石室を主体部とする3基の古墳群です。  1号墳は、墓地中に南方向に大きく口を開けています。石室規模は、玄室長4.6m、幅1.8m、高さ1.6mを測り、奥壁、天井石、側壁ともに平面に整えられた巨石を組み上げています。2号墳は、1号墳の西側に小型の横穴式石室を同じく南に開口する。3号墳は、1号墳から山道を30mほど下った辺りに横穴式石室を同じく南に開口しています。

原津古墳群

原津8号(祇園塚)

倉敷市生坂の生坂ハイツという新興住宅地の周辺に数基から成る古墳群でしたが、現在は住宅地の中に2基のみが残されています。  4号墳は、径8mほどの円墳で、石室現存長3.3m、幅1.65mの横穴石室を主体部とします。8号墳は、径15mほどの円墳で、片袖式の横穴石室を主体部とし、全長6.9m、玄室長4.7m、1.7mを測ります。築造年代は、7世紀代と推定される。

谷塚古墳

果樹園内に開口

倉敷市玉島八島、吹田山口線の走る南側の果樹園内に残る古墳で、横穴式石室が露出しています。  石室規模は、石室残存長7.4m、幅2m、高さ1.8mを測り、奥壁に1枚岩を使用し、全体的に大きな石材を用いています。北東方向には、一つ塚古墳が分布します。

八島天王山古墳

瀬戸内の海上交通を掌握

高梁川の右岸、玉島八島の丘陵裾から南へ低く派生する小丘上に位置する前方後円墳で、旧備南街道沿い北側亀山公園内に残ってます。  墳丘規模は、全長50mほどを測り、道路拡張工事の為に前方部を削平されている。後円部頂部には、天王神社が鎮座しており、社殿が建っています。墳丘には葺石、埴輪の存在が認められている。築造年代は、4世紀中頃~後半と推定される。  古墳築造当時は、古墳の目の前まで海が入り込んで来ており、耕作地が少なかったとされます。このような条件から推測すると古墳の被葬者は農業を生業としたのではなく、瀬戸内の海上交通の掌握を経済基盤した豪族の首長墓と考えられます。

木の山神社裏古墳

大木池の南西丘陵上

倉敷市玉島道口の大木池南西の丘陵上に位置する木の山神社に横穴石室の石材が散乱しています。全国文化財総覧によると西方丘上より移築と記載されている。

七社神社北古墳

南浦から金光への県道下

南浦の集落から県道471号線を北上すると天台宗海蔵寺があり、その先の道が蛇行する手前左下に横穴石室が露出しています。  石室規模は、石室残存長5.1m、幅1.6m、高さは1.3mを測り、内部はかなり埋没が進んでいます。出土遺物など他詳細は不明。
Placeholder Image

鷲羽山古墳群

屈指の絶景墳!

鷲が翼を広げた様子に似ていることから名付けられた鷲羽山は、瀬戸内海や瀬戸大橋を眼下に臨める最高なパノラマ風景を楽しむことができる日本初の国立公園です。  麓から山頂にかけて遊歩道が整備され、その遊歩道沿いに3基の古墳が分布しています。3基ともに墳丘が失われ横穴式石室の石材が露出しています。少し残念な残り具合ですが、この絶景と合わせて散策できる古墳としては、まさに絶景墳と言えるでしょう。
bottom of page