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京丹後市

ニゴレ古墳
準構造船舟形埴輪が出土
西側に網野町と東側に竹野川流域(弥栄町)を結ぶ交通の要衝路を見下ろす丘陵に位置する不正形墳で、自然地形を最大限活用した墳形となってます。
墳丘規模は、径30m、高さ4mほどを測り、葺石、段築は認められない。そして、円筒埴輪列が幅0.8~1.7m間隔で13本確認されてます。また、形象埴輪では、甲冑、船、椅子、家型が確認されてます。船形埴輪は、準構造船を模したもので、日本海交易を担った船団を率いる王の姿が推測されます。
埋葬施設は、割竹型木棺の直葬で、副葬品として三角板革綴式短甲、堅矧細板革綴式衝角付冑、肩甲、脛甲など鉄製甲冑一式が出土しています。築造年代は、5世紀中葉と推定。

ユリヶ鼻古墳群
遊歩道に連なる古墳群
京丹後市久美浜町須田、平野山の麓から山頂の伯耆谷展望台の平野山上古墳まで連なる古墳群で、円墳と方墳の17基から成ります。周辺区域は、古代の丘公園として竪穴式住居や高床式倉庫など伯耆谷のシンボル的存在施設があります。また、丘陵中腹では須田平野古墳で横穴石室が開口する。さらに谷奥には、金銅装環頭大刀や銀装圭頭大刀など豪華な副葬品が出土した湯舟坂2号墳が位置する。この他にも多くの古墳が分布しており「王家の谷」とも呼称されている。
当古墳群は大きくても10mほどの墳丘規模で、古墳上などを通過するハイキングコースとなっている。麓から当古墳群を経由して山頂の平野山古墳、そして、中腹の須田平野山古墳を見学し、古代の丘公園へ下山するコースは、軽いハイキングとして心地の良いコースとなってます。

丹後古代の里資料館の石棺
3基の屋外展示
丹後古代の里資料館の屋外に3基の石棺が展示しております。
ひとつは「王者の棺」と言われる長持型石棺で馬場の内古墳から出土したと伝わります。凝灰岩製で6個の突起がつき隅丸長方形の形状をする。出土遺物は、鉄鏃茎片、鉄斧、鉄鋤先、勾玉、革金具片が出土。二つ目は、丹後町大山の山中から発見された石棺と思われる石材ですが、詳細は不明。三つ目は、久美浜町大向の愛宕山古墳の舟形石棺です。凝灰岩製で、縄掛突起が残っているのが確認できます。
館内には、ほかにも「丹後王国」から出土した多くの豪華な出土品が展示されているので、まずは情報収集してから古墳を巡るのがベストと思われます。

千束古墳群
東西尾根に分布
峰山町石丸千束谷の狭く小さな谷筋に面した尾根上に位置するする古墳群で、東側尾根と西側尾根とに分かれて分布する。東側尾根には5号、6号墳(消滅)が分布し、幹線道路改良事業に伴う調査がおこなわれました。東側尾根には、前方後円墳を含む1号~4号、7号墳(詳細不明、画像あり)が分布する。そして、谷を挟んだ南東尾根上には、豪華な副葬品が出土した弥生時代の大型台状墓である赤坂今井墳丘墓があります。
東の尾根に位置する5号墳は径13mほど円墳で、箱型木棺が納められていました。出土遺物は、鏡、玉類、鉄製品、須恵器が出土。築造年代は、5世紀前半と推定されます。
同丘陵上、6号墳は一辺10×7mの方墳で、組合式箱型木棺が納められていました。出土遺物は、鉄鐸、鉄鏃、銅釦、須恵器などが出土。築造年代は、5号墳より大きく下った6世紀前半と推定される。

大谷古墳
40代女性の人骨出土
竹野川の上流域の平野を眼下に見下ろす好立地、丘陵の先端部に単独で位置する帆立貝式古墳です。現在、大谷古墳公園女王の丘として整備されてます。
墳丘規模は、全長32m、後円部径26m、高さ4m、前方部幅19m、高さ2.5mですが、縮小して墳丘を復元しています。埋葬施設は、後円部中央に組合石棺が安置され、40代女性の人骨がほぼ完全な状態で出土する。女性首長を葬った古墳は、西日本を中心に数例しかなく、貴重な存在と言える。さらに墳丘盛土の下層から弥生時代の墳丘墓に伴う主体部が重複した状態で6基が確認されました。
副葬品は、銅鏡、鉄剣、玉類など三種の神器が出土している。築造年代は、5世紀前半と推定。

小池古墳群
日本最大級陶邑窯から持ち込まれた
竹野川の中流域、京丹後市大宮町に分布する古墳群で、A支群8基、B支群13基、C支群17基、D支群16基、E支群27基、F支群6基の計87基から成る古墳群です。B支群の13基で調査が行われてます。
墳丘規模は、一辺10mほどの方墳と径10mほどの円墳で、木棺直葬の埋葬施設となります。現状は、状態の良いものはなく、墳丘が陥没しているのがほとんどです。
出土遺物として、須恵器、土師器、鉄斧、鉄鏃、刀子、大刀、鉄鎌、砥石、弥生土器などが出土。須恵器においては大阪府南部の丘陵地帯にある日本最大級の須恵器生産地の陶邑窯から持ち込まれたとみられます。ちょうど須恵器が持ち込まれた頃と方墳から円墳の墳形変化がもたらされた頃より当古墳群が継続して群集墳として形成されて行きます。築造年代は、古墳時代中期と推定される。

平野山上古墳
伯耆谷展望台
京丹後市久美浜町須田、平野山の山頂の伯耆谷展望台となっているのが当古墳です。周辺区域は、古代の丘公園として竪穴式住居、高床式倉庫など伯耆谷のシンボル的存在施設や同丘陵麓から当古墳に至るまで墳丘連なるユリヶ鼻古墳群がハイキングコースとして整備されています。また、中腹では須田平野古墳で横穴石室が開口する。さらに谷奥には、金銅装環頭大刀や銀装圭頭大刀など豪華な副葬品が出土した湯舟坂2号墳が位置しています。この他にも多くの古墳が分布しており「王家の谷」とも呼称されている。
伯耆谷を見渡せる展望台となっている当古墳は、径17.5m、高さ2.5mの円墳で、未調査のため埋葬施設、副葬品など詳細は不明。
ち ょっとしたハイキングとして山頂まで足を運ぶには、ちょうどよい古墳と思われます。

新戸古墳
奥壁に石棚
竹野川の右岸、沖積地を見下す丘陵上にある前方後円墳(1号墳)で、同丘陵上にある円墳の2号墳(径20m)とで新戸古墳群を形成します。
1号墳墳丘規模は、墳丘長35m、後円部径20m、高さ5m、前方部幅28m、高さ4mを測り、以前は円墳と考えられていましたが、調査によって前方部を東に向ける小型の前方後円墳と判明する。埋葬施設は、南に開口する両袖式の横穴石室で全長7.1mを測り、奥壁に石棚を備え、丹後地区唯一の存在となります。石棚のサイズは奥行1.4m、幅2m、厚さ0.7mとなる。
出土遺物は、金環、水晶製切子玉 、瑪瑙製勾玉、雲珠、鏡板 が出土。築造年代は、6世紀代と推定される。

涌田山古墳群
3世紀に遡る可能性
峰山町の丹波地区と矢田地区境の丘陵上に位置し、多久神社本殿背後に40基ほど分布している。うち1号~4号墳が京都府指定史跡となっている。
1号墳は全長100m及び、短く前方部が突出する帆立貝式古墳で、黒部銚子山古墳、神明山古墳に次ぐ規模となります。後円部のみ2段のテラスが存在し、葺石、埴輪などは認められない。
出土遺物は、古墳時代のものは検出されず、弥生時代の壺、甕、高坏が出土。周辺域には、弥生時代の遺跡(高地性集落)の存在が考えられます。
築造年代は、墳形から古墳時代中期と考えられてましたが、纒向型前方後円墳の研究が進展してゆくにつれ、古くて3世紀まで遡るという説が提唱されている。いずれにせよ古墳時代中期という今までの見解より3世紀代~4世紀代までは、少なくとも遡ると推測され、「古代丹後王国」誕生に重要な位置を占める存在と考えられます。

湯舟坂2号墳
日本古代史上の大収穫
久美浜湾に流れ込む川上谷川の中流域に位置する円墳です。周辺区域は、古代の丘公園として竪穴式住居、
高床式倉庫など伯耆谷のシンボル的存在施設があって、平 野山丘陵にはユリヶ鼻古墳群、須田平野古墳、平野山上古墳が分布し、ハイキングコースとして整備されています。そして、「王家の谷」とも呼称されている。
墳丘規模は、径18m、高さ5mを測り、幅3.5m、深さ1mの周溝が巡ります。埋葬施設は、南東に開口する両袖式横穴式石室で花崗岩を用いた全長10.6mの立派な石室です。現在は、石室基部が残り、敷石も確認することが出来ます。
出土遺物は、金銅装環頭大刀や銀装圭頭大刀の武器、玉類、馬具、飾金具、土師器、須恵器など多くの豪華な副葬品が確認され、日本古代史上の大きな収穫となりました。築造年代は、6世紀後半と推定され、7世紀前半まで追葬が行われる。

神明山古墳
丹後ナンバー2
竹野川右岸、東から派生した丘陵先端部を利用して造られた前方後円墳で、前方部を北東方向に向けます。網野銚子山古墳(京丹後市丹後町)、蛭子山古墳(与謝郡与謝野町)と合わせて「丹後三大古墳」に数えられます。
墳丘規模は、墳丘長190m、後円部径129m、高さ26m、前方部幅78m、高さ15mを測り、日本海側第2位の規模を誇ります。墳丘は、3段築成、葺石、円筒埴輪、形象埴輪を備え、丹後型円筒埴輪や「船を漕ぐ人物」線刻のある埴輪片が確認されてます。埋葬施設は、詳しい調査は行われていませんが後円部墳頂辺りの石材散乱状況から竪穴式石室が推定されます。
出土遺物は、埴輪片のほか、石製模造品、弥生土器が出土。築造年代は、4世紀末~5世紀初頭と推定される。

網野銚子山古墳
日本海側ナンバーワン
福田川の右岸、日本海を見通す丘陵上に位置する前方後円墳で、墳丘主軸の後円部側に小銚子古墳、前方部側に寛平法皇塚古墳の陪塚を従える。神明山古墳(京丹後市丹後町)、蛭子山古墳(与謝郡与謝野町)と合わせて「丹後三大古墳」と呼ばれてます。
墳丘規模は、全長198m、後円部径115m、高さ16m、前方部幅80m、高さ10mで日本海側最大級を誇る。墳丘には、周溝が巡り、三段築成、葺石、円筒埴輪を備えます。円筒埴輪は、頂部に丸い器を伏せたような蓋がされ、中心に穴が開けられていると言う特異形状で「丹後型円筒埴輪」と言います。築造年代は、4世紀末~5世紀初頭と推定される。
日本海側最大級の網野銚子山古墳と佐紀盾列古墳群で最初に築かれた日葉酢媛命の墳墓とされる佐紀陵山古墳(墳丘長207m、4世紀後半築造)とは、相似形と考えれてます。日葉酢媛命は丹後出身とされ、弟が網野銚子山古墳の被葬者ともされてます。初期の大和政権と「丹後王国」と密接な関係性が伺えます。

赤坂今井墳丘墓
弥生時代終末期の巨大墳墓
中郡盆地から福田川の河口に通じる谷筋に面した丘陵先端部に位置する大型の方形台状墓です。
墳丘の規模は、東西36m、南北39m、高さ4mが地山整形と盛土によって構築されている。埋葬施設は、墳頂部の南北27m、東西25mに6基と幅9mの西側土壇上面テラスに16基が確認されている。中心埋葬施設の 第一主体部は14m×10.5mの大きな二段墓壙となる。墓壙西側からは、4本の柱穴列が認められる。第四主体部は、7.2m×4mの二段墓壙で、第一主体部に次ぐ規模となり、舟底木棺が出土しています。
出土遺物は、第四主体部から頭飾り・耳飾り一式(玉類)、ヤリガンナ、鉄剣が出土。玉類は、ガラス製勾玉22点、ガラス製57点、碧玉製管玉39点を数えます。築造年代は、2世紀末~3世紀初推定される。

離湖古墳・離山古墳
湖の中央部の離山に分布
網野、島津、小浜の三地区にまたがる京都府最大の淡水湖である離湖には、湖の中央部に半島が突き出している。離山と呼ばれ、その丘陵上に離湖古墳・離山古墳に2基が位置しています。
離山古墳は、丘陵の最も高い尾根上にある径15m、高さ2.2mの円墳です。埋葬施設は、安山岩の扁平な割石を平積みにし、花崗岩の天井石を被せた竪穴系横口式石室です。出土遺物は、金環、玉類、鉄斧、須恵器坏、土師器が出土。築造年代は、6世紀中頃と推定される。
離湖古墳は、東西34m、南北43mの不正形墳です。埋葬施設は、地元産の石材でつくられた長持形石棺と箱形木棺を直接埋納しています。出土遺物は、長持形石棺で刀、鉄斧、刀子、鉄鏃、短甲が出土。箱形木棺で釧、玉類、堅櫛、鉄刀、鉄剣が出土し、棺外では鉄鏃、鉄鉾が出土する。築造年代は、5世紀代と推定される。

高山12号墳
京都府下で3例目出土
竹野川に流れ込む徳良川の左岸丘陵上に分布する9基から成る円墳群で、1~2基を単位で散在する。
墳丘規模は、8~10mと14~18mに分かれ、葺石、埴輪などは認められない。主体部は、全て横穴式石室で、無袖式が3・6・7号墳、右片袖式が1・4・5・12号墳となる。築造年代は、6世紀後半から7世紀代と推定さ れます。
12号墳は、径18m、高さ2.5mの円墳で、天井石は失われているが、全長12.2mの安山岩と凝灰岩使用の石室を見ることができます。副葬品は、金銅製双龍環頭大刀柄頭、銀象嵌円頭大刀柄頭をはじめ、装身具、武器、馬具、土師器、須恵器などが出土。なかでも金銅製双龍環頭大刀は、京都府下で久美浜湯船坂2号墳、夜久野町今西中西古墳についで3例目となります。全国でも60例ほどしか出土がなく、6世紀以降に朝鮮半島から持ち込まれ大和政権下で国産化された貴重なものです。築造年代は、7世紀初頭と推定される。

黒部銚子山古墳
「丹後王国」最期の大王墓
北流する竹野川の右岸、西に突き出す丘陵尾根を分断して築かれた前方後円墳で、すぐ南側の尾根上には福谷城跡が存在する。竹野川のすぐ東に面した墳丘は、樹木に覆われ、前方部を南東に向ける。
墳丘規模は、全長105m、後円部径70m、高さ15m、前方部幅50m、高さ11mを測り、2段築成、葺石、埴輪列が認められ、周溝も巡っていました。埋葬施設や出土品は、未調査のため不明。
築造年代は、5世紀前半と推定される。「丹後王国」の大王墓である蛭子山1号墳(与謝野町、145m、4世紀中葉)、網野銚子山古墳(京丹後市網野町、198m、4世紀後半)、神明山古墳(京丹後市丹後町宮、190m、4世紀末~5世紀初)に後続する王墓だが墳丘規模が縮小され、その後100m級の前方後円墳が築かれなくなります。「丹後王国」最期の大王墓と言えるでしょう。
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