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さぬき市

岩崎山第1号・4号墳

津田古墳群

津田川の左岸、東の平野に向かって弧状に突き出す尾根稜線上に位置する4基の古墳群です。西側高所から順に、第1号、第2号、第3号、第4号古墳と連なります。津田古墳群に属し、うのべ山古墳、川東古墳、古枝古墳、赤山古墳、岩崎山4号墳、けぼ山古墳の前方後円墳6基と一つ山古墳、岩崎山1号墳、龍王山古墳の円墳3基から構成される。津田湾臨海部を中心とした古墳時代前期初頭~古墳時代中期初頭まで長きに渡って継続して築かれた古墳群です。  4号墳は、墳長58mほどの前方後円墳で、前方部を西に向けます。墳丘には、葺石、埴輪を備える。墳頂部の小祠に岩崎権現が祀られており、古墳名はそこから名付けられました。埋葬施設は、二段に掘り込まれた土壙に割竹型石棺が納められています。出土遺物は、斜縁二神四獣鏡、管玉、ガラス製小玉、勾玉、車輪石、貝釧、鉄剣、直刀、刀子、銅鏃、柳葉形鉄鏃、鎌、斧、鑿、錐、人骨が出土。築造年代は、4世紀中頃と推定される。  1号墳は、径15mほどの円墳で、葺石、埴輪は認められない。埋葬施設は、2メートル四方に掘り込んだ土壙に2基の箱型の石棺が納められていました。双方ともに安山岩が用いられ、同様な構造を成しています。出土遺物は、東棺から大刀、剣、石製刀子、石製鎌、櫛、貝製品、鉄鑿、斧が出土。西棺から大刀、鎧、石製刀子、貝製品が出土しています。

龍王山古墳

津田古墳群

津田古墳群は、津田湾臨海部を中心とした古墳時代前期初頭から古墳時代中期初頭まで継続して築かれた古墳群で、うのべ山古墳、川東古墳、古枝古墳、赤山古墳、岩崎山4号墳、けぼ山古墳の前方後円墳6基と一つ山古墳、岩崎山1号墳、当古墳の円墳3基から構成される。  墳丘規模は径25mほどの円墳で、円筒埴輪、形象埴輪が並んでいました。主体部は、南北方位の全長5.9mの竪穴式石室で、安山岩の割石で構築される。そして、墳丘中心部から少しずれていることから、さらに石室があることが推測されている。。現状、天井石が露出しており、石室内を覗ける状態となっています。  出土遺物は、内行花文鏡、鉄鏡、鉄刀、刀子、ヤリガンナなどが出土。築造年代は、4世紀後半と推定される。

吉見弁天山古墳

津田湾を眼下に

吉見神社が鎮座する同丘陵上に築かれた円墳で、津田湾を眼下にします。  墳頂には、石仏が祀られており、その下部に組合式箱式石棺の一部が露出しています。また、墳丘には、葺石があったことがわかってます。築造年代は、古墳時代中期と推定される。

吉見稲荷山古墳

津田湾を眼下に

津田湾に突き出す丘陵上に築かれた円墳で、眼下に津田湾が広がり、墳頂に稲荷神社が鎮座します。  墳丘は、7m×12mほどで、葺石が認められます。祠には、安山岩を用いた御神体が祀られており、埋葬施設の一部であると考えられます。築造年代は、古墳時代中期と推定される。

泉山古墳

泉山二社明神

津田湾を見通すことができる泉聖天尊本廟の拡張工事中の際に箱式石棺が発見されました。石棺底には、粘土を敷き引き詰め、赤色顔料で彩られた石棺には男女2体が納められておりました。出土遺物は、ヤリガンナ、平鎌、櫛が出土。築造年代は、5世紀代と推定される。  遺骨は、樹脂製の容器に納められ、社殿基礎の下に安置されています。出土した副葬品は、泉山二社明神(ご神体)として祀られています。

古枝古墳

古式の前方後円墳

津田湾に流れ込む津田川の右岸、雨滝山の南西麓に地山成形し、盛土によって築かれた前方部を北に向ける前方後円墳です。  墳丘規模は、全長35m、後円部径20mを測ります。墳丘には葺石が認められ、前方部前端にも境界を区別するために用いられているようです。埋葬施設は、合掌型の竪穴式石室1基と粘土槨1基に木棺が納められていたことわかってます。  出土遺物は、竪穴式石室から方格規矩四神鏡、ガラス製小玉、管玉、鉄鏃が出土。粘土槨から斜縁神獣鏡が出土している。築造年代は、4世紀中頃と推定される。

石槌神社古墳

前方後円墳?

鴨部川の左岸、塚原山塊から派生した丘陵北端部に位置する古墳で、すぐ北側に熊田池が位置します。同丘陵上には、中代古墳、稲荷山古墳、打越古墳などが存在し、隣接して川上古墳があります。  墳丘は、径10mほどの円墳とされますが前方後円墳の可能性も指摘されています。築造年代は、5世紀後半と推定される。他詳細は不明。

富田茶臼山古墳

四国最大級

長尾平野の東側、爛川と津田川に挟まれた讃岐山脈から派生する丘陵の北端部に位置する大型の前方後円墳です。  墳丘規模は、全長163m(周溝を含む)、墳長139m、後円部径90m、高さ15m、くびれ部幅56m、前方部長49m、幅77m、高さ12.5mを測り、四国最大級を誇ります。墳丘には、段築、葺石が認められ、3000本ほどの円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪などが並べられていました。  埋葬施設は、未調査のため不明であるが竪穴式石室と考えられている。築造年代は、5世紀前半と推定される。  西に向く前方部側には、陪塚とされる3基の方墳が存在します。3基は、いずれも東西南北を指向しており、主墳の主軸方位に平行、直行する。このことから築造当初から陪塚の配置が計画性をもって築かれていたことがわかります。

極楽寺1号墳

門入の郷 花の広場

寒川町石田東の門入ダム北側にある「門入の郷 花の広場」内にダム建設の際に移設された方墳です。  墳丘周囲には、列石を貼り巡らせており、中央部から木棺2基、石棺2基が確認されている。副葬品は認められていませんが、周囲の石棺・木棺群からは勾玉、管玉、鉄製品が出土する。築造年代は、弥生時代終わり頃~古墳時代初頭と推定されます。

若宮古墳

若宮神社となる

鴨部川の右岸、さぬき東街道沿いにある香川東部青果市場西側に位置する前方後円墳で、若宮神社となっている。鳥居が建っているほうが前方部となっているようです。築造年代は、古墳時代中期と推定される。他詳細は不明。

丸井古墳

県下最古級の墳丘

鴨部川の左岸、塚原山塊から派生した丘陵高所に位置する前方後円墳で、高松市の鶴尾神社4号墳と並んで香川県で最古級とされます。同丘陵上北側には、中代古墳、稲荷山古墳、川上古墳、打越古墳などが分布する。  墳丘規模は、墳長29.8m、後円径12.8m、高さ1.75m、くびれ幅5m~8m、前方部長17.2m、幅7.3m、高さ0.85mを測り、自然地形を削って築かれている。尾根先端側の後円部はいびつな楕円形を呈し、前方部全面には溝を堀込み区別しています。また、列石も確認されており、特に前方部には2列の石積みが確認されています。  埋葬施設は、後円部墳頂に花崗岩の川原石を用いた竪穴式石室が東西方向に向いて2基確認されている。第1主体部からは、粘土床に残った形状から長さ4.5m、幅0.7mの割竹形木棺が納められていたことがわかってます。  出土遺物は、前方部前端部から広口壺、第1主体部から玉類、長柳葉形鉄鏃、斧、土師器、第2主体部から環状乳式画文帯神獣鏡、土師器壺が出土する。

中代古墳群

古墳時代前期初頭

新川と鴨部川に挟まれた丘陵上、鍛冶池東側の尾根上に続いて築造された2基の古墳時代前期初頭の古墳群です。同丘陵上には、打越古墳、稲荷山古墳、川上古墳が存在する。介護老人保健施設悠々荘の入り口から藪を進むとたどり着きます。  一号墳は、墳長38.7m、後円径24.1~26.1m、高さ2m、くびれ幅9.3m、前方部長14.6m、幅12.2m、高さ0.5~0.75mの前方後円墳で、葺石が確認されている。埋葬施設は、後円部墳頂が陥没しており、未調査ですが竪穴式石室と推測されています。二号墳は、径30mほどの円墳です。いずれの墳丘も低い盛土が残っている程度の状態です。

打越古墳

通り越し注意!

鴨部川の左岸、塚原山塊から派生した尾根上に分布する竪穴式石槨を主体部とする円墳です。同丘陵上には、中代古墳、稲荷山古墳、川上古墳が存在する。さらに高所には、丸井古墳が存在する。  熊田池のある北側から遊歩道を登ってゆくと古墳名の標柱が立ってます。築造年代は、4世紀初頭推定される。

川上古墳

豊富な出土品

鴨部川の左岸、塚原山塊から派生した尾根北端部に分布する古墳で、すぐ北側に熊田池が位置します。同丘陵上には、中代古墳、稲荷山古墳、打越古墳が存在する。  墳丘は径10mほどの円墳で、竪穴式石室を主体部とします。川原石で構築された石室は、長さ4m、幅1.2mを測ります。  出土遺物は、横矧板鋲留短甲、衝角付冑、鉄槍、鉄鉾、鉄剣、鉄刀、鉄鏃、刀子、鉄斧、馬具、須恵器など多くの副葬品が出土する。築造年代は、5世紀後半と推定される。

大石神社古墳

鉄剣が出土

鴨部川の左岸、志度山川線の西側丘陵上に位置する円墳で、20基ほどの前山古墳群が分布していました。すぐ北側の丘陵麓には、大石北谷古墳が位置しています。  埋葬施設は、竪穴式石室を主体部とし、長さ4.5m、幅0.78mを測ります。出土遺物は、鉄剣、鉄鏃、鉄斧が出土。築造年代は、5世紀中頃推定される。

大石北谷古墳

ばくちば古墳

鴨部川の左岸、志度山川線の西側丘陵麓に位置する古墳で、20基ほどの前山古墳群が分布していました。かつては、石室の中で博打が行われていたようで「ばくちば古墳」と言われてようです。すぐ南側の丘陵上には、大石神社古墳が位置しています。  南に開口する両袖式の横穴石室を主体部とし、全長8.5m、玄室長4.3m、幅1.8m、高さ2m、羨道長4mを測ります。石室形状は、奥壁から天井部を緩やかに持ち送り、徳島県美馬市に多く分布する「段の塚穴型」に若干近い構造を残しています。築造年代は、7世紀中頃と推定される。

椋の木古墳

むくの木が目印

鴨部川の左岸、県道志度山川線(3号線)の西側丘陵斜面に位置する古墳で、椋の木が墳頂に生えていたことから、そう呼ばれる。  花崗岩を用いた両袖式の横穴石室を主体部とする円墳?で、玄室長3.53m、幅1.6m~2m、高さ2mを測ります。出土遺物は、金環、須恵器が出土。築造年代は、7世紀前半と推定される。

亀島古墳群

池中に浮かぶ島に分布

宮池に浮かぶ亀島に分布する25基ほどの古墳群で、西側の宇佐神社周辺の丘陵にある宇佐神社古墳群25基と合わせて大規模古墳群を形成していました。  なかでも櫻の宮社は、大型円墳で前方後円墳ではないかとも推測されている。 亀島の頂部では、大型の古墳も確認されており、刀剣、鏃、金環、銀環、土師器が出土している。築造年代は、6世紀中頃~7世紀末と推定される。

宇佐神社古墳

こだわり伝わる

亀島の浮かぶ宮池の西側には、宇佐神社があり、その周辺丘陵には25基ほど宇佐神社古墳群が分布する。その中の1基が当古墳となる。さらに亀島にも25基ほどの古墳群が分布しており、確認されているもので合わせて50基と大規模古墳群となります。  当古墳は、なかでも状態の良い横穴式石室が開口しています。石室は、南に開口する両袖式の横穴式石室で、奥壁に四角い石材を中心に配置し、あまり他では見ることない「こだわり」を感じさせられます。築造年代は、6世紀中頃~7世紀末と推定される。

諏訪山古墳

ここでも椀貸伝説

乙井城跡とされる諏訪山の独立丘陵上にある古墳で、山頂部が平坦状になっており、その一番高所に横穴を開口しています。墳丘横には、諏訪神社が鎮座しています。  墳丘規模は径15mほどの円墳で、右片袖式の横穴石室を主体部とします。出土遺物は、たくさんの須恵器が出土しています。築造年代は、6世紀末と推定される。  諏訪山古墳では、多くの須恵器が出土していることから椀貸伝説が伝わってます。この伝説は、人が集まる際に器などが足りなくなった時に諏訪山古墳に来れば器を貸してくれて、ある時に器を壊してしまい、わびをしないので返したり、返却を怠ると二度と貸してくれなくなったという言い伝えです。このような椀貸伝説は全国各地にあり、同県では高松市の久本古墳、観音寺市の椀貸塚古墳などにも伝わります。

極楽寺古墳群

西古墳・東古墳

さぬき市長尾東にある三十三観音霊場第八番札所の真言宗寺院極楽寺(宝蔵院)付近に残る古墳です。さぬき東街道沿いに、道を挟んで西古墳と東古墳が存在します。  西古墳は、極楽寺駐車場の西側に墳丘は失われ、八幡社の社が鎮座しています。古墳名の白い標柱がたってます。東古墳は、極楽寺から道路の向かい側に、木々に覆われ残されてます。他詳細は不明。

緑ヶ丘古墳群

石室中央部に排水溝

三木津田線(県道37号)の南側丘陵裾部に残る古墳群で、4基の円墳から成ります。周囲は山に囲まれ、見通しのきかない立地条件です。  2号墳は径14m、高さ3mですが、天井部を失い、横穴式石室を露出させています。石室は南に開口する右片袖式の横穴石室で、全長6m、玄室長3m、幅1.5mを測ります。大型の石材を丁寧に積んだ石室は、存在感があり、玄室中央から羨道にかけて幅30cmほどの排水溝が設けられていました。  出土遺物は、鍔、鉄鏃、刀子、銀環、銅環、ガラス玉、勾玉、須恵器、土師器などが出土。築造年代は、6世紀後半と推定される。    2号墳の左手前方30mほどに4号墳が天井石の一部を露出状態で残ってます。石室自体は、埋没しているようです。

陰浦古墳

山奥にひっそりと

三木津田線(県道37号)の南側丘陵上に残る古墳で、麓の緑ヶ丘二号墳の西側に位置する。古墳には、小さな標柱が立っており、これがないと見逃してしまうような状態です。  墳丘は失われ、横穴式石室の基底部が露出する。羨道を含めた規模は、現存長4.2m、幅0.6mを測ります。現状、雑草に覆われており奥壁がなんとか確認できる程度となっている。築造年代は、7世紀後半と推定される。

一の瀬古墳群

横穴の群集墳

津田川と合流する爛川の右岸、南北に長い丘陵の西側斜面中腹や麓に分布する古墳群で、10基ほどの円墳から成ります。  墳丘規模は、径10mほどで小型の横穴式石室を主体部とします。状態の良い石室は少ないですが、1号墳と9号墳とで比較的状態の良いものを見ることができます。築造年代は、6世紀後半~7世紀代と推定される。

八剣古墳群

玄門そそり立つ

津田川の右岸、大川町富田東の八剣神社境内に分布する2基の円墳から成る古墳群です。  1号墳は、民家の庭先に横穴式石室が南向きに開口する。花崗岩や安山岩が用いられ、庭から見上げる玄門部に迫力を感じます。  2号墳は、社殿横にあって、半壊状態で石室石材が一部露出しています。昔は石室内に入ることができたようです。築造年代は、7世紀前半と推定される。

富田神社古墳

形良き墳丘残る

津田川の右岸、大川町富田中にある富田神社社殿裏に位置する古墳です。西隣の尾根先端部には、金刀比羅宮が鎮座しています。  墳形は、円墳とされ形の良い墳丘を残してます。墳丘には、周囲を縄で取り囲み神域とし、鳥居も建てられています。他詳細は不明。

大井七っ塚古墳群

古式の群集墳

旧大川町と寒川町の境に分布する古墳群で、8基の円墳が東西に並んでいます。  4号墳からは、4基の竪穴式石室が確認され、そのうち3基は北西方向に30cm下の場所に並列に築かれ、残りの1基は、それらより1mほど下に東西方向に築かれていました。出土遺物は、最下部の4号石室から碧玉製管玉、甲冑、須恵器が出土。築造年代は、5世紀後半と推定。  古墳群としての築造年代は、5世紀後半~6世紀初頭とされ、群集墳のなかでは古式とされています。

奥3号墳(竪穴式石室)

三角縁神獣鏡が出土

弥生時代から古墳時代の雨滝山遺跡群の中にある前方後円墳で、大井七っ塚古墳群の西100mほどに第一主体部の竪穴式石室を移築復元しています。  墳丘規模は、墳丘長37m、後円径17m~22m、高さ3m、くびれ部幅8m、前方部長15m、幅10m、高さ1.5mを測ります。後円部は楕円形を呈し、.前方部を北に向けます。埋葬施設は、第一主体部である竪穴式石室と第二主体部の組合式箱型石棺の2基が確認されています。第一主体部の竪穴式石室は、長さ3.87m、高さ0.65m、幅0.6~0.7mを測り、粘土床の上に割竹形木棺を納めています。第一主体部北側に位置する第二主体部の安山岩製の石棺は、長さ1.65m、高さ0.27m、幅0.3~0.48mを測り、築造当初から計画性をもって築かれていることがわかってます。  出土遺物は、第一主体部棺内から三角縁三神五獣鏡、鉄剣、ヤリガンナ、刀子、斧が出土。第二主体部棺内から熟年女性の人骨、ヤリガンナ、斧が出土しています。三角縁三神五獣鏡については、京都府の椿井大塚山古墳や奈良県の黒塚古墳から出土した鏡と一部同じ鋳型で製作された同范鏡とされています。

野間東1号墳

なかなかの存在感

地蔵川と鴨部川が合流する南西の独立丘陵北側の先端部に位置する円墳で、2号墳とで古墳群を構成しています。北側の畑から見える墳丘は、なかなかの存在感があり、墳頂に石灯籠や石祠が建てられています。また、築造当時のものか定かでありませんが、角度によって段築も確認できます。

白羽古墳群  

3基ほど確認

さぬき市昭和にある観音寺南東の林の中に分布する古墳群で、3基ほどの円墳を確認しました。そのうち2基で小型の石室が開口していました。他詳細は不明。

蓑神塚古墳

前庭部を検出

阿讃山脈から北側平野部に向かって数本の尾根が派生しています。その谷部に造成した明神池、御田神辺池に挟まれた丘陵東側の裾部に築造された古墳です。すぐ南には蓑神古墳群、東隣の丘陵上には蓑神東古墳群が分布する。  墳丘は、復元推定径16m、高さ3mの円墳で、幅1.5m、深さ0.3mほどの周溝が巡ります。現状は南北9m、東西7m、高さ2.5mほどに削平されている。埋葬施設は、両袖式の横穴石室で全長8.3m、玄室長4.6m、 幅1.8m、 高さ2.m、羨道長3.9m、 幅1.5m、 高さ1.9mを測ります。発掘調査にて石室前に花崗岩を主とする礫が認められ、石室入口に直行して横長に配されおり、前庭部と考えられている。  出土遺物は、鉄釘、ガラス製小玉、子持装飾器台(子杯)、杯身、長頚壷、装飾器台などが出土。築造年代は、7世紀前半と推定される。

観音院古墳

観音堂裏に墳丘

亀鶴古墳群のある宮池の北東に位置する円墳で、観音堂裏に形の良い墳丘を残してます。古びた鳥居越しに見る墳丘は、なかなか趣が感じられます。他詳細は不明。

稲荷山古墳

竪穴式石槨×2

東西に横たわる阿讃山脈の北側、鴨部川と新川とに挟まれた丘陵北端部に位置する古墳です。  墳丘は、全長40mほどの前方後円墳で、前方部を南に向け、葺石が認められます。また、壺型埴輪が採取されている。埋葬施設は、2基の竪穴式石槨が確認され、現在、石槨の天井石らしき石材が露出しています。築造年代は、4世紀前半と推定される。
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