top of page

太田市

二ッ山古墳群
様々な埴輪並ぶ
太田市新田天良町、扇状地の端部に位置する前方後円墳2基から構成される古墳群です。両古墳は、隣接して造られ1号墳は前方部を北西に向け、南側の2号墳は、前方部をおおよそ西に向ける。
1号墳の墳丘規模は全長72mを測り、周溝が巡っていました。2段築成で葺石も確認され、多くの埴輪が並べられていました。埴輪は、基壇上2列、石室入り口前庭部両側に円筒埴輪、朝顔型埴輪、後円部には円筒埴輪が巡り、内側に馬、人物埴輪が配列、くびれ部からは人物、馬、靭、鞆などが出土、前方部墳頂に4棟の家が配置されていました。主体部は、南に開口する乱石積みの片袖式横穴石室で、全長7.2mを測ります。副葬品は、武器類、馬具類、須恵器が出土しています。
2号墳の墳丘規模は、全長45mを測り、2段築成、葺石が認められ、周溝が巡っていました。周溝の切合い状況から2号墳が後続して築造されたようです。主体部は、南に開口する乱石積みの全長7mほどの横穴石室で、現状埋没している。両古墳の築造年代は、6世紀後半~7世紀初頭と推定される。
また、付近には上野国新田郡庁跡、白鳳時代の寺井廃寺跡があり、その関連性が指摘される。

二体地蔵塚古墳
毎晩人の争う異様な声
早田川と石田川に挟まれた世良田の東部から西北にある小角田は、古墳の密集地帯となっていて「世良田四十八塚」とも言われていました。現在では3基のみ現存し、二体地蔵塚は、そのうちの一つで世良田公園の東に位置する。
墳丘は、径24m、高さ4mの円墳で、墳頂部には2体のお地蔵様が祀られています。
この古墳には、いくつかの言い伝えがあります。1333(元弘3)年、北条高時は西国で起こった乱を鎮めるための戦費調達費として多額の税の徴収 を行います。この世良田にも、その波が押し寄せて黒沼彦四郎入道と紀出雲介親連が徴収に訪れます。新田義貞は二人を拘束して黒沼は斬首、さらし首、もう一方の紀出雲介親連は重臣の同族と言うことで助命される。
また、この塚の周辺では、毎晩ひとの争う声が絶えず聞こえてくるそうで、村の人々は恐れをなして、もとは一体であった地蔵だが、普門寺からもう一体を移して二体としました。すると争う異様な声は止んだそうだ。このことが由来となって二体地蔵古墳と呼ばれるようになりました。

太田天神山古墳
別名「男体山古墳」
太田市中心地、台地上に築かれた大型の前方後円墳で、東日本最大級を誇ります。別名「男体山古墳」と呼ばれ、現在でも県道2号線から雄大な姿を横たえてます。また、後円部北東側にA陪塚、前方部南西にB陪塚が存在します。
墳丘規模は、全長約210m、後円部径120m、高さ16.8m、前方部幅126m、高さ12mを測り、3段築成、2重の周溝が巡らされる。周溝を含めると総全長355mを超えてきます。主体部は、後円部墳頂に盗掘されていたが緑色凝灰質砂岩の長持ち型石棺が掘り出されている。
出土遺物は、B種ヨコハケ調整を含んだ、多くの円筒埴輪、形象埴輪が出土。この他、土師器、家形の石製模造品が出土する。築造年代は、5世紀前半と推定。

富沢古墳群
築造年代は2期間
蛇川左岸の由良台地上の南西端に分布する古墳群で、34基が確認されている。現在、16基ほどが市営富沢住宅団地の区画に残ってます。団地入口には埴輪が迎えてくれるなど古墳と団地が上手く融合している。
墳丘は、円墳、方墳(前方後方墳?)、帆立貝型、前方後円墳、方形周溝墓など種類豊富で、大きく分けると築造年代が、4世紀後半と6世紀後半と2期間に分かれることがわかっています。
前期古墳群は、方形を中心とした墳丘がT字形を成して分布する。後期古墳群は、安山岩を用いた横穴石室を有しています。古墳群中央には、前方後円墳の稲荷塚古墳があって生品神社が鎮座する。前期古墳群においては、朝子塚古墳との関係性が注目されています。

鳥祟神社古墳
周溝内に中島あり
金山丘陵の西方の扇状地端、氾濫台地上に位置す る前方後円墳で、現状は前方部が削平され、後円部頂に鳥崇神社(ちょうそうじんじゃ)が鎮座する。墳丘には、馬蹄形の周溝を備え、その周溝内に中島があるのが特徴です。中島を備える前方後円墳は、上毛野地域の中心勢力に台頭する保渡田古墳群に見ることができ、なんらかの政治的秩序の再編のもとで、この東毛地域に出現した首長であると推測することが出来る。
墳丘規模は、全長70m、後円部径40m、高さ8m、前方部幅28mを測り、周溝内の中島は、径10m、高さ2mを測ります。
後円部から円筒埴輪片が採取され、葺石も認められる。主体部は、竪穴系と考えられてます。築造年代は、5世紀末~6世紀初頭と推定。
bottom of page