top of page

藤岡市

七輿山古墳

七台の輿に乗せて葬る

鏑川と鮎川によって形成された舌状河岸段丘上の北側に位置する前方後円墳で、白石古墳群に属します。白石古墳群は、七輿山支群・猿田支群・稲荷山支群・下郷支群から構成され、七輿山支群に分布する。  墳丘規模は、全長150m、後円部径85m、高さ16m、前方部幅115m、高さ16mを測り、東日本最大級を誇ります。3段築成の墳丘には、葺石を伴い、前方部南西方向に造出が付設、内溝、中堤、外溝、外堤の二重周溝(前方部側は3重周溝)が巡っていました。また、中堤には2列の埴輪が配列される。円筒埴輪は、百舌鳥・古市古墳群で見られる7条突帯の高さ1m、径40cmの大型品で、貼付口縁、低位置突帯に特徴をもつ。  埋葬施設は、未調査のため不明だが近年の地中レーダー探査によって横穴式石室と推定される。築造年代は、6世紀の前半と推定される。  藤岡市周辺域は、日本書記によると安閑天皇二年(535年)に設置された緑野屯倉に推定される地域で、古墳の被葬者との関連性が注目されます。

伊勢塚古墳

驚愕のデザイナーズ石室

鏑川右岸の河岸段丘上に位置する不正形な八角形墳で、素晴らしい「模様積み」の石室を見ることが出来ます。七輿山古墳、皇子塚古墳と同じ白石古墳群に属しています。  墳丘規模は、径27.2m、高さ6mの4段築で、1段目は八角形、2段目より上は円形で構築される。2段目から円筒埴輪、人物・盾形埴輪が確認される。墳丘周囲には、周溝が巡ります。  埋葬施設は、南に開口する両袖式の横穴式石室です。玄室側壁は、珪岩質の自然石を配した周辺に片岩の棒状の石を積み上げてゆく特徴あるデザインを用いてます。側壁は持ち送られ、天井はドーム型、玄室床面は胴張り形を呈する。玄門は緑泥片岩によって部屋を区切り、さらに疑似楣も架けられている。築造年代は、6世紀末と推定される。

別所堂山古墳

奥壁側が残存

神流川左岸の丘陵尾根先端部に位置する前方後円墳で、前方部側に別所公会堂の建物が建っています。  墳丘規模は、全長34mほどを測りますが、前方部が墓地となっていて、かなり改変されてます。埋葬施設は、横穴石室で、後円部墳頂に奥壁側のみ残っています。  出土遺物は、勾玉、直刀、土師器、円筒埴輪片が出土。築造年代は、6世紀の後半と推定。

十二天塚古墳、十二天塚北古墳

クマ出没!

鏑川と鮎川によって形成された舌状河岸段丘上に分布する2基の方墳で、南に白石稲荷山古墳が位置する。そして、白石古墳群の稲荷山支群に属し、稲荷山古墳の陪塚とされる。  十二天塚古墳は、一辺36.8m×26.8mの方墳で、墳丘はほぼ失われる。珍しい熊型の埴輪が出土している。十二天塚北古墳は、一辺23m×22mの方墳で、こちらも墳丘流出する。埋葬施設は、両墳とも竪穴系の礫槨とされる。築造年代は、稲荷山古墳と同時期の5世紀の前半と推定される。

原古墳

開いててよかった

神流川中流域の左岸、ちょうど南波川と合流する辺りに位置する積石塚構造の古墳で、セブンイレブン 鬼石三杉町店駐車場に基底部が移築復元されている。そのため時間を気にすることなく見学が可能な古墳です。  墳丘規模は、径9.4m、高さ3mほど小型円墳ですが、積石塚に似た珍しい構造をしています。円筒埴輪、人物、馬、器財、家などの形象埴輪が並べられていたことも確認されている。埋葬施設は、無袖式の横穴石室を備える。副葬品として武器、刀子、玉類、耳環が出土。築造年代は、6世紀前半と推定。  群馬県古墳総覧では、別名「鬼石町1号古墳」とも言われる。

喜蔵塚古墳

切石の巨大石室

鏑川南側、鮎川の左岸の白石台地の南端部、緩やかな傾斜地に位置する古墳で、白石古墳群稲荷山支群に属します。民家敷地内に横穴石室が大きく口を開けている。  墳丘規模は、南北25m、東西23m、高さ4mを測り、円墳または、方墳とされる。埋葬施設は、南に開口する両袖式の横穴石室で、凝灰岩の切石で精巧に組み込まれ、天井石は、牛伏砂岩の巨石で構築される。出土遺物は、確認されていない。築造年代は、7世紀後半の古墳時代終末期と推定される。

堀越塚古墳

円墳と判明

鏑川と鮎川によって形成された舌状河岸段丘上に位置する円墳で、白石古墳群下郷支群に属します。龍泉寺の南側、民家敷地内にあります。  墳丘は、径25mほどの円墳で、2段築成、葺石を備える。以前は、前方後円墳とされてましたが、円墳と判明しています。埋葬施設は、南西方向に開口する川原石を利用した両袖式の横穴式石室で、胴張りでドーム型の天井部をしています。築造年代は、7世紀の初頭と推定される。

宋永寺裏東古墳

舟形石棺出土

鏑川と鮎川によって形成された舌状河岸段丘上の北側に位置する前方後円墳で、白石古墳群の七輿山支群に属します。  墳丘規模は、全長53m、後円部径25m、高さ5m、前方部幅29m、高さ4mを測りますが、前方部が墓地となっている状態です。埋葬施設は、竪穴系と推定され、舟形石棺が出土している。宗永寺境内の覆い屋にて保存され、立派な石碑も建ってます。石棺の蓋は、一部しか残存してませんが、凝灰岩を刳り貫いた石棺の身には、縄掛け突起が確認できます。  出土遺物は、管玉、小札、鉄鏃、馬鐸、石製模造品が出土。築造年代は、5世紀後半と推定される。

宋永寺裏西古墳

美土里村4号古墳

鏑川と鮎川によって形成された舌状河岸段丘上の北側に位置する前方後円墳で、白石古墳群の七輿山支群に属します。群馬県古墳総覧では、美土里村4号古墳とされる。  墳丘規模は、全長48.1m 後円部高さ4.8m 前方部高さ4.8mを測ります。墳丘上には、墓地が存在します。埋葬施設は、横穴石室とされますが損壊しています。築造年代は、七輿山支群内の前方後円墳の中で、もっとも新しい6世紀後半と推定される。

平井地区1号・2号・2号北古墳

装飾大刀が出土

鏑川と鮎川によって形成された舌状河岸段丘上の北側に位置する円墳群で、白石古墳群稲荷山支群に属します。七輿山支群よりは、南の高い位置にあって見通しの良いところに分布します。  平井地区1号古墳は、径30mほどの円墳で、2段築成、葺石、埴輪、周溝を備えます。また、墳頂部と石室前で小石を敷いた祭祀遺構が認められる。前者からは須恵器大甕、後者からは土師器(坏・壺・甕)、須恵器(𤭯・高坏・坏・短頚壺・横瓶・提瓶)が出土。  埋葬施設は、北に開口する両袖式の横穴石室で、凝灰岩の切石で構築されている。出土遺物は、銀象嵌円頭大刀、金銅装単鳳環頭大刀の武器や武具、馬具、装身具などが出土。築造年代は、6世紀の後半と推定される。  1号墳の東に位置するのが平井地区2号墳・平井地区2号北古墳です。それそれ小型の円墳で、南北に並んでいます。埋葬施設は、両墳とも両袖式の横穴石室となっている。出土遺物は、埴輪類、土師器、須恵器が出土。築造年代は、7世紀の前半と推定される。

平地神社古墳

模様積みの石室

鮎川右岸の平坦地に位置する円墳で、中大塚古墳群の1基として平地神社境内に残っています。  墳丘規模は径33m、高さ3.5mほどで、2段築、葺石を備え、1段目平坦面に埴輪列が検出されている。埋葬施設は、南に開口する両袖式の横穴石室で、この地域独特の「模様積み」となっている。しかしながら、施錠されていて見学することができないのが残念です。  出土遺物は、人骨、直刀、刀子、鉄鏃、金環、馬具が出土。築造年代は、6世紀後半と推定。

戸塚神社古墳

「おくまん様」と呼ばれます

神流川左岸の沖積地、上戸塚に位置する前方後円墳で、前方部の墳頂には戸塚神社が鎮座します。通称「おくまん様」と呼ばれ親しまれてます。  墳丘規模は、全長53m、後円部径30m、高さ2.5m、前方部幅41m、高さ4mを測り、葺石、埴輪の配列が確認されている。埋葬施設は、南西に開口する両袖式の横穴石室で、細長い片岩を小口積みにする。玄門内側に2mほどの緑泥片岩製の梱石が確認される。  出土遺物は、圭頭大刀、刀子、鉄鏃、鈴、銀環、須恵器短頸壺、提瓶、横瓶、土師器高坏が出土。築造年代は、6世紀の後半と推定。

白石古墳群 そのほか

まだまだあるある

白石古墳群は鮎川の西側に分布する古墳群で、七輿山支群、稲荷山支群、猿田支群、下郷支群の4支群で構成される  七輿山支群、稲荷山支群は、前方後円墳など大型の古墳が多く、173号線金井倉賀野停車場線から東側の猿田支群、下郷支群は、ほとんどが円墳で構成されてます。ここでは猿田支群、下郷支群を中心に紹介します。

白石稲荷山古墳

豪華な副葬品

鏑川と鮎川によって形成された舌状河岸段丘上に位置する前方後円墳で、鮎川の西側に東日本最大級の堂々たる墳丘を横たえてます。そして、白石古墳群の稲荷山支群に属します。  墳丘は全長155mを測り、3段築成、葺石、南北に周溝を備えます。埴輪列は、円筒埴輪、朝顔型埴輪が後円部に3段に巡らされ、前方部で基壇面と3段目に確認されている。  埋葬施設は、後円部墳頂に2基確認され、西槨上から家型埴輪、短甲型埴輪、東槨上から家形埴輪を検出する。副葬品は、豪華で多くのものが確認されていて、東槨から内行花文鏡をはじめ、石枕、多種類の滑石製模造品、鉄刀、玉類が出土。西槨からは、四獣鏡、石枕、多種類の滑石製模造品、玉類、鉄刀などが出土する。築造年代は、5世紀の前半と推定される。

皇子塚古墳

石室は複室構造

鏑川と鮎川によって形成された舌状河岸段丘上の北側に位置する円墳群で、白石古墳群稲荷山支群に属します。すぐ北側に平井地区1号古墳、北東には2号古墳、2号北古墳が隣接する。  墳丘規模は径31m、高さ6mで、4段築成、葺石を備える。墳丘からは、多くの埴輪片が検出される。埋葬施設は、南東方向に開口する両袖式の横穴石室で、玄室と前室からなる複室構造となる。羨道と前室は河原石の乱石積み、玄室は凝灰岩の切石積みで構築される。  出土遺物は、金銅装単龍環頭大刀柄頭、弓金具、鉄鏃、耳環、ガラス玉、馬具、人骨などが出土。築造年代は、6世紀の後半と推定され、7世紀の前半まで追葬が行われる。

神田地区古墳群

総数100基超の大群集墳

神流川支流である三名川の左岸、台地平坦部に分布する古墳群で、かつては隣接する三本木古墳群と合わせて200基を超える大群集墳であったと考えられる。現在は、この神田地区には数えるほどしか残っておらず、状態の良いのも数が少ない。  そのなかでも、111号墳(高橋塚古墳)は、全長24mの小型の前方後円墳が確認されている。埋葬施設は横穴石室を備える。80号墳、81号墳は、かつて2基の円墳が並んでいてものとされてたが、周溝が検出され前方後円墳と判明。現状でもはっきりと前方後円墳わかる程度に残ってます。このほか、消滅しているが118号墳の全長30mほどの前方後円墳からは、金銅装の160cmほど頭椎大刀が出土している。

美土里地区20号・21号墳

なんとか残ってます

美土里地区20号墳は、周囲は介護施設などで開発されるが神社ということで、墳形を変えて残っている。 美土里地区21号墳は、ビニールハウスの背後に残り、墳頂は墓地となって平に均される。両墳とも円墳だが、なんとか改変されながら残っている状態で、他詳細は不明。
Placeholder Image

胴塚稲荷古墳 

胴体を埋葬したとの伝承

天正10年6月、織田方の滝川一益と北条氏が争った関東最大の合戦である「神流川の戦い」で敗戦した滝川一益軍の戦死者の胴を埋葬した塚と伝えられる。現在は「胴塚稲荷神社」として祀られており、古墳はその土台となってます。また、近くには首塚八幡宮も存在する。  墳丘規模は、径14mほどの円墳で、直刀や人骨が出土しています。他詳細は不明です。

般若塚古墳

鬼石町2号古墳

神流川中流域の左岸、ちょうど南波川と合流する辺りの三杉神社から西に登って行った位置にある円墳で、見通しの良い景色が広がる場所に立地する。  墳丘規模は、径15.1m 高さ3.3mほどを測り、墳丘上に小さな社が建てられ豊川稲荷大明神が鎮座する。群馬県古墳総覧によると別名「鬼石町2号古墳」とも言われる。他詳細は不明。

萩原塚古墳

靫の埴輪出土

鏑川と鮎川によって形成された舌状河岸段丘上に位置する前方後円墳で、白石古墳群下郷支群に属します。龍泉寺の北西の民家裏にあります。  墳丘は、全長40mほどで円筒埴輪や形象埴輪が並べられていました。埋葬施設は、川原石積みの両袖式横穴石室ですが、開口部は狭く埋没気味です。出土遺物は、埴輪、武器、玉類、銅製鈴、銅製鉸具が出土。出土した靫型埴輪は、藤岡歴史観に展示されている。

藤岡町1号・2号墳墳

浅間神社古墳・奥浅間古墳

神流川左岸、その神流川に流れ込む支流の三名川の北側台地上に位置する円墳です。2基とも浅間神社の境内にあって、社殿の土台となってますが形の良い墳丘を残してます。  浅間神社古墳(藤岡町1号墳)は、径38.1m 高さ4.5mほどの円墳ですが、前方後円墳の可能性も考えられてます。大きな墳丘の上に、富士浅間神社が鎮座し、藤岡城の北の守りとして一部改修を行った。「藤岡」と言う地名は、この神社の富士丘が発祥とされる  奥浅間古墳(2号墳墳)は、径24.2m 高さ4.8mほどで、上記古墳のすぐ西側にあります。墳頂に八坂神社が鎮座しています。

諏訪神社古墳群

境内に開口する2基

神流川左岸の平坦地、諏訪神社境内に残る前方後円墳1基と円墳1基の計2基から構成される古墳群です。両墳ともに立派な石室が開口する。  諏訪神社古墳は、全長57mほど前方後円墳で、前方部を西に向け、円筒埴輪、形象埴輪の配列が認められる。また、周囲には周溝が巡ります。埋葬施設は、南西に開口する両袖式の横穴式石室で、玄室は牛伏砂岩の切石で精巧に積まれ、羨道より手前は自然石の乱石積みとなっている。全体的に持ち送りを強く感じること事ができる仕上がりになってます。そして、奥壁側に板状の間仕切り石を立て棺座を設ける。副葬品として、単鳳環頭大刀などの武器、甲冑、馬具、銀環、須恵器などが出土している。築造年代は、6世紀後半の後半と推定される。  諏訪神社北古墳は、同境内にあって径25mほど円墳で、南西方向に開口する両袖式の横穴石室を備える。玄室は、凝灰岩の切石で積み上げられ、羨道は川原石の乱石積みです。多くの副葬品が確認されているようだが現在行方不明となっている。築造年代は、6世紀後半と推定される。  両墳の横穴石室は、施錠されているが社務所に行くと鍵を借りて見学することが可能です。

霊符殿古墳

模様積み石室

神流川左岸の平坦地に位置する前方後円墳で、前方部を東に向ける。現状、すぐ真横を走る八高線施設工事によって前方部は削平されたと考えられている。後円部墳頂には霊符殿が鎮座している。  墳丘規模は、後円部径33m、高さ6mを測り、周溝が巡っていたと考えられる。埋葬施設は、南に開口する全長9.02mの両袖式の横穴石室で、珪岩質の転石を使用した模様積みとなっている。伊勢塚古墳の模様積み石室よりかは、完成度は若干劣る。  出土遺物は、確認されていない。築造年代は、6世紀の後半と推定される。
bottom of page