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壬生町

愛宕塚古墳

壬生初代首長登場

黒河左岸の段丘上に位置し、壬生中心地北東部には3代にわたって継続して築造された首長墓群が分布する。その初代に相当するのが当古墳となります。基壇を備えた墳丘、周溝、周堤ともに良く残り、掘り中からの景色に圧倒されます。  墳丘は1段目に基壇を備え、規模は全長77m、後円部径34m、前方部前端幅46m、高さ5.5mを測り、2段目は全長53m、後円部径23m、前方部前端幅35m、高さ6.5m(周溝底面から)の墳丘がのり、前方部を西に向ける盾形周溝を備えた前方後円墳です。周溝は、幅10-21mの周溝が巡り、外縁には基壇と同じ高さの周堤を見ることができる。周溝、周堤を含めると全長100mほど規模となり、壬生初代首長墓にふさわしい貫禄です。  埋葬施設は、未調査のため不明、周堤上からは円筒埴輪、盾持人埴輪、馬形埴輪片などが出土しており、埴輪が並べられていたと考えられる。築造年代は。6世紀後半と推定。(参考 探訪とちぎの古墳)  前方部に祀られている愛宕神社は、元禄7年に壬生城主、松平輝定が壬生城の鬼門除けとして建立したと伝わっています。

牛塚古墳

壬生2代目

黒河左岸の段丘上に位置し、壬生中心地北東部には3代にわたって継続して築造された首長墓群が分布する。その2代目に当たるのが当古墳となります。  墳丘は1段目に基壇を備え、規模は全長49m、後円部径34.7m、前方部長11.8m、前端幅24.9mを測り、2段目は全長39.7m、後円部径27.6m、高さ5.55m(周溝底面から)、前方部長12.2m、高さ2.8m(周溝底面から)の墳丘がのり、前方部を南に向ける帆立貝型前方後円墳です。いわゆる「下野型古墳」とも言われる。墳丘周囲には、幅13-20m周溝が巡り、外縁には周堤を見ることができる。周溝、周堤を含めると全長80mにも迫る規模となる。葺石、埴輪は確認されないが、須恵器の大甕片が出土しており、墳丘に並べられていたものと考えられる。築造年代は。7世紀の初頭と推定。(参考 探訪とちぎの古墳)

車塚古墳

壬生3代目降臨

黒河左岸の段丘上に位置し、壬生中心地北東部には3代にわたって継続して築造された首長墓群が分布する。その3代目に相当するのが当古墳となります。基壇を備えた墳丘、周溝、周堤ともに良く残り、掘り中からの景観は首長墓にふさわしい迫力です。  墳丘規模は、径82m(二段目径44.7m、三段目30m)、高さ11.6m(周溝底面)の大型円墳で県内最大級を誇る。墳丘には、幅25-26m、深さ3mほど周溝が巡り、さらに外縁に周堤が巡る。周溝、周堤を含めると120mに達する。埋葬施設は、巨大な凝灰岩の切石を組み合わせた複室構造の横穴石室で、南に開口する。石室全長5.72m、玄室長約3m、幅2.77m、高さ2.3mを測ります。  出土遺物は、須恵器の大甕片が出土している。築造年代は、墳丘、石室構造から7世紀の前半と推定される。(参考 探訪とちぎの古墳)

富士山古墳

羽生田の古墳群

思川の支流黒川の左岸、壬生町北西部の羽生田地域の丘陵、台地上には大型の古墳が分布します。当古墳は、南北に延びる丘陵先端部の町域最高所に位置し、地域で最初に築かれます。そして、茶臼山古墳、長塚古墳、桃花原古墳の順に築造される。  墳丘は、二段築成の円墳で、一段目は長軸86m、短軸80m、高さ2mの楕円形状の基壇を成し、二段目は径55m、高さ10mの形の良い円墳が残る。埋葬施設は、未調査のため不明。  出土遺物は、基壇から円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪が出土、墳頂からは円筒埴輪、形象埴輪が出土。なかでも墳頂から出土した家形埴輪2棟(高さ168cm、156cm)は大型で全国的にも最大級となる。築造年代は、6世紀の前半と推定。(参照 探訪とちぎの古墳)

茶臼山古墳

羽生田の古墳群

思川の支流黒川の左岸、壬生町北西部の羽生田地域の丘陵、台地上には大型の古墳が分布します。富士山古墳、茶臼山古墳、長塚古墳、桃花原古墳、亀の子塚古墳が主な古墳で、富士山古墳から谷を挟んだ300mほど西側に前方部を南に向けて当古墳が位置します。  墳丘は「下野型古墳」の特徴をしており、一段目の基壇は、全長91m、後円部径45m、高さ18m、前方部前端幅51m、二段目(上段)は、全長66.4m、後円部径37m、前方部前端幅40m、高さ5.4mを測り、17-23mほどの周溝が巡り、幅3.5-8.8mほどの周堤を備え、周溝、周堤を含めると全長140mを超える規模となる。  埋葬施設は、未調査のため不明。出土遺物は、後円部墳頂と一段目テラスに円筒埴輪、前方部周辺から須恵器大甕と器台、高坏、坏、壺、埦が出土する。埴輪は、ほかにも人物、鞆、家型埴輪が出土しており、復元推定180cmになる家形埴輪は、国内最大級を誇ります。築造年代は、6世紀後半の築造と推定。

長塚古墳

羽生田の古墳群

思川の支流黒川の左岸、壬生町北西部の羽生田地域の丘陵、台地上には大型の古墳が分布します。富士山古墳、茶臼山古墳、長塚古墳、桃花原古墳、亀の子塚古墳が主な古墳で、茶臼山古墳に後続するのが当古墳です。  墳丘は「下野型古墳」の特徴をしており、一段目の基壇は全長77m、後円部径54m、前方部前端幅71m、二段目が、全長53m、後円部径282.2m、高さ4.2m、前方部前端幅39.4m、高さ4.6mを測り、前方部がわずかに高い構造になっている。墳丘には、葺石が確認できるが埴輪はともなっていない。埋葬施設は、未調査で不明。築造年代は、7世紀の初頭と推定。

桃花原古墳

羽生田の古墳群

思川の支流黒川の左岸、壬生町北西部の羽生田地域の丘陵、台地上には大型の古墳が分布します。富士山古墳、茶臼山古墳、長塚古墳、桃花原古墳、亀の子塚古墳が主な古墳で、長塚古墳に後続して築造された大型円墳です。  墳丘規模は、径63m、高さ5mの三段築成で、一段目の基壇には、幅8.5-9.0mのテラスが築かれ、葺石も確認されている。墳丘には、幅15-19mほどの周溝が巡り、総径90mに迫る大型の円墳で、前方後円墳にも劣らない威厳を受けます。  埋葬施設は、南に開口する凝灰岩製の複室横穴石室と考えられます。出土遺物は、金銅製馬具、鉄鏃、斧状鉄製品、須恵器甕が出土。築造年代は、7世紀の前半と推定される。(参照 現地説明板、探訪とちぎの古墳)

亀の子塚古墳

羽生田の古墳群

思川の支流黒川の左岸、壬生町北西部の羽生田地域の丘陵、台地上には大型の古墳が分布します。富士山古墳、茶臼山古墳、長塚古墳、桃花原古墳、亀の子塚古墳が主な古墳で、桃花原古墳の南250mに位置する帆立貝型前方後円墳です。当古墳は、他の羽生田地域の墳丘と違って、小型で段築を成していないのが特質する。  墳丘規模は、全長34.6m、後円部径24.9m、高さ3.7m、前方部前端幅12m、高さ2mで、前方部を南西に向ける。墳丘には、前面に葺石を備え、埴輪をともなう。埴輪は、円筒埴輪、人物、動物、盾、靭、鞆など豊富に確認されてます。  埋葬施設は、未調査のため不明だが、坏、甕、土師器甕、𤭯が出土。築造年代は、6世紀の後半。(参照 探訪とちぎの古墳)

吾妻古墳

栃木県最大規模

思川の支流黒川の左岸台地上、壬生町と栃木市の境目に位置する前方後円墳で、藤井古墳群を形成していました。  墳丘は、全長127.85mで、周溝を含めた全長は162mを超え、栃木県最大規模を誇ります。また、1段目に基壇を備え、2段目に墳丘がのるという「下野型古墳」の特徴を示す。埋葬施設は、前方部先端に造られた横穴石室で、石室全長8.4m、玄室は緑色岩の一枚石で構築され、壁面には、赤色顔料が確認されている。前室は河原石積み、凝灰岩切石を用いた玄門と天井石は壬生城跡に移設される。築造年代は、6世紀の後半と推定。

ナナシ塚古墳

消滅する

姿川の右岸、ちょうど東部宇都宮線と姿川に挟まれた中心辺り、民家横に存在していた墳丘です。もともと墳丘はほとんど残ってませんでしたが、現在は更地となって完全に跡形もなく消滅しました。  墳丘は、全長46mの前方後円墳で、石室石材は大谷石を使用していたようです。人物埴輪が出土しており、東京国立博物館に所蔵されている。

亀塚古墳

いわさくねさく神社が鎮座

姿川の右岸、姿川に栃木街道の橋が架かる南西に林に覆われているの所が墳丘となっており、前方部には磐裂根裂神社が鎮座する。  墳丘規模は、全長55m、後円部径35m、高さ6mの前方後円墳で、周囲には幅6m、深さ1.5mほどの周溝が巡っていました。主体部、出土遺物など他詳細は不明です。築造年代は、6世紀代と推定。
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愛宕神社古墳

こちら円墳です

思川の左岸、東武宇都宮線のすぐ南側に愛宕神社があります。古墳そのもが愛宕神社となっていて、墳丘の上に社殿が建ってます。  墳丘規模は、径27m、高さ4mの円墳で、形の良い墳丘が残っている。壬生町には、全長約82mの前方後円墳の愛宕塚古墳がありますが間違いやすいので注意が必要です。
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