上船塚古墳から若狭街道を挟み北側に位置する古墳で、両墳あわせて「夫婦塚」と称する。上船塚古墳と同様に、前方部を西に向け、2段築成、盾形の周溝が巡る。葺石は確認されていない。埋葬施設は、前方部と後円部に陥没の跡が確認できるが不明。 築造年代は、脇袋古墳群から続く膳臣一族の首長墓と考えられ、上船塚古墳に後続する6世紀中頃と考えられている。
北側に下船塚古墳が分布し、本古墳との間に若狭街道が東西に通る。 全長70mの前方後円墳で、前方部を西に向ける。2段築成で葺石は確認されておらず、盾形の周溝が巡っていた。埋葬施設は未調査だが、横穴式石室と推測される。築造年代は、脇袋古墳群から続く膳臣一族の首長墓と考えられ、十善の森古墳に後続する6世紀前半と考えられている。
国道27号線沿い北側の水田に浮かぶ墳丘は、全長68mの前方後円墳で、葺石、埴輪を備え、周溝を巡らせていた。埋葬施設は前方部と後円部に横穴石室があって、赤色顔料が塗布され、床面には敷石が確認されている。前方部の小石室に関しては後世に埋め込まれたと考えられている。後円部の片袖の横穴石室は全長6.45mで北部九州の特徴がみられる。 出土遺物は、中国製方格規矩神獣鏡をはじめ、朝鮮半島との関係性を伺わせる金銅製轡、金銅製冠などが多数出土している。6世紀初頭の築造。
十善の森古墳の北側、線路を越えた畑に記念碑が建つ古墳跡とになっていますが、かつては径50m超える円墳で、背の高い片袖横穴石室を備えていました。葺石、埴輪は確認されず、周囲に周溝が巡っていたようです。 副葬品は、画文帯神獣鏡をはじめ、若狭では初出土の挂甲など朝鮮半島と関わりの深い多くの貴重な出土品が確認されている。6世紀 中頃の築造。
現存4基から構成される脇袋古墳群の西端に位置し、前方部を南に向ける(鉄道建設の為に消滅)全長74mの前方後円墳で す。墳丘は3段築成で葺石、埴輪が確認され、周濠を備える。 埋葬施設は、内部が赤色顔料が塗布された竪穴系横口式石室で、中国製神人画像鏡 、仿製四獣鏡をはじめ多くの貴重な副葬品が出土している。5世紀後半の築造。
脇袋古墳群の1基で、全長54m、後円部径30m、高さ6m、前方部幅26mの前方後円墳で、3段築成、葺石、埴輪、周濠を備える。 現状、墳丘は大きく改変され、前方部は水田となり、後円部も削平される。埋葬施設は詳しい調査が行われていない為に不明。築造年代は5世紀中頃と推定される。
脇袋古墳群の1基で、全長90m、後円部径51m、高さ9m、前方部幅48m、高さ7mの3段築成の前方後円墳で若狭地方最大を誇ります。葺石、埴輪を備え、周囲には、周溝が巡っていました。詳しい調査は行われていない為、埋葬施設については不明。築造年代は4世紀末~5世紀前半と推定される。
脇袋古墳群に1基で、以前は円墳と考えれていたが調査の結果で全長50~60mの前方後円墳であることがわかった。 葺石、円筒埴輪、朝顔型埴輪が確認され、周囲には周溝が巡っていた。5世紀末の築造と推定される。
鳥羽谷の丘陵上に位置する全長63mの前方後円墳です。上ノ塚古墳に続く若狭地域の王墓と考えられております。 墳丘には埴輪が巡り、段築の2段目には葺石が確認されています。すぐ北に位置する三生野遺跡からは、ほぼ同時期と見られる朝鮮半島の陶質土器が出土しております。5世紀中頃の築造と推定される。
径23m、高さ4mの円墳で葺石が確認され、500点以上の甲冑形埴輪のかけらが多数採取されている。大和政権が抱えていた職人の技術が影響した埴輪として、若狭地域との関係性を考えるうえで貴重な発見となる。5世紀初頭の築造と推定。
現状は面影がなくなているが、径16m、高さ2.8mの円墳で、大き目の石材を使用した横穴石室を備えていました。石室の全長は6.2m、玄室長3.2m、幅1.3mを測り、細長い印象の石室のようです。 出土遺物は、金銅製耳環、刀子、鉄鏃、須恵器、内面黒色土器が出土。遺物の出土状況から3体の追葬が6世紀後半から7世紀初頭まで行われる。
標高140mの尾根の中腹に位置する径20mの円墳で、良好な片袖の横穴石室が残る。奥壁は左右に4段のブロック状に積み上げ、最上部は小型の石材で調整している。床面は丁寧に石材が敷かれている。出土遺物には、馬具、武器、玉類、須恵器が出土し、6世紀中頃の築造と推定される。
国道沿いの水田の中に石室が露出しているのが確認できる。他詳細は不明
十善の森古墳から東南東に位置する後期の古墳で、竹林の中で横穴石室の石材が露出しています。出土遺物は、須恵器が確認される。他詳細は不明。