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三次市

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七ツ塚古墳群

みよし風土記の丘

馬洗川の支流である美波羅川の左岸、三次盆地の南東部の丘陵上に分布する古墳群で、計116基の浄楽寺古墳群と計60基の七ツ塚古墳群を合わせて県北最大の浄楽寺・七ツ塚古墳群を形成する。みよし風土記の丘として公園整備され、歴史民俗資料館も併設しています。  七ツ塚古墳群は、前方後円墳1基、帆立貝型古墳2基、円墳55基、方墳2基の合計60基の古墳によって構成され、浄楽寺古墳群の南側に分布する。  唯一の前方後円墳の9号墳は、全長30m、後円部径18m、前方部前端幅15mを測ります。  群中最大規模とされる円墳は、径28mの15号墳(探訪・広島の古墳)、径26m、高さ3.6mの40号墳(現地説明板)で段築を備える。ほか10号、11号墳で帆立貝式古墳が認められる。  42号、48号、49号墳では、長さ8mほどの横穴石室を主体部とする古墳の分布も認められます。

三玉大塚古墳

三次で最大級

三次市吉舎町三玉、東から西に延びる丘陵尾根上に位置する帆立貝式古墳で、三次市最大級の墳丘とされる。  墳丘規模は、全長41m、後円部径33m、高さ8m、造出部幅15m、高さ2.2mを測り、2段築成、葺石が3段に取り巻かれ、埴輪が並べられていたと考えられます。また、墳丘周囲には周溝、周堤が巡っていました。埋葬施設は、竪穴式石室で、石室天井石が露出する。  出土遺物は、鋸歯文鏡、珠文鏡などの銅鏡をはじめ、玉類、武具、馬具、須恵器などの多くが出土する。築造年代は、5世紀後半と推定される。

上定古墳群

殿山古墳群と対峙

美波羅川の左岸、舌状に延びる低丘陵上に分布する31基の円墳から成る古墳群です。そして、東側に川を挟んで、殿山古墳群(38基)が対峙します。  墳丘は、全て円墳で丘陵南斜面に分布する14基と尾根線上または、その周辺に分布するものとに分かれる。前者の主体部は、横穴式石室と推定される。後者では、25号墳で竪穴式石室が確認されているほか不明となる。  出土遺物は、27号墳で珠文鏡、玉類、刀子、農工具、須恵器などが出土。築造年代は、5世紀~7世紀代と推定される。

下山手古墳群

水道タンクが目印

三次市向江田町、備北広域農道の南側丘陵上に5基から成る古墳群で、水道施設拡充に伴って円墳の4号墳と長方墳の5号墳が発掘調査され、1号~3号墳は現地保存、5号墳のみ移築保存される。  5号墳は、東西22m、南北16m、高さ2.1mを測り、幅2mの周溝が巡る。埋葬施設は、箱式石棺が3基確認されました。第一主体部から鉄製槍鉋、鉄鏃、人骨が出土。周溝内からは素文鏡出土しています。築造年代は、4世紀末~5世紀初頭と推定される。

八幡山1号墳

造出が付設する

馬洗川の中流域の丘陵尾根上に位置する帆立貝式古墳で、草木に覆われ全体像がわかりにくいのが現状です。  墳丘規模は、全長45m、高さ6mを測り、北側に小さな造出が付設します。また、造出の左右に幅10mほどの周溝が巡っていました。埋葬施設は組合箱式石棺と考えられ、棺内から珠文鏡、鉄刀、鉄剣、甲冑が出土する。築造年代は、5世紀後半と推定。

宗祐池西遺跡石棺

みよし風土記の丘に移設

三次市南畑敷町、宗祐池西側の南向き丘陵斜面で出土した石棺で、みよし風土記の丘に移設されてます。  石棺は、板石を組み合わせたものではなく、小型の石材を竪穴式石室のように積み上げている。そして、被葬者を直接埋納しています。石棺周辺からは、須恵器が出土。築造年代は、6世紀末~7世紀前半される。

宮の本24号古墳

みよし風土記の丘に移設

馬洗川、美波羅川、国兼川の合流地点を見下ろす丘陵上に分布する30基から成る古墳群です。中国横断自動車道の建設工事に伴って発掘調査が行われ、その後、みよし風土記の丘に移設されています。  墳丘規模は径30m、高さ4mを測り、2段築成、葺石を備えます。墳丘には100本を超える円筒埴輪がならべられていました。埋葬施設は、墳頂に3基の竪穴式石室が設けられ、SK1、SK2石室には木棺が安置されていたことがわかってます。  出土遺物は、SK2石室から直径6cmほどの青銅鏡が出土。SK3石室からは鉄鏃、鉄刀子が出土する。築造年代は、4世紀末~5世紀初頭と推定。

岩脇古墳

6基の埋葬施設

市街地の西側、高谷山の東麓丘陵上に位置する円墳で、当古墳を含めて7基の岩脇古墳群を形成します。  墳丘規模は、径31m、高さ3.5mを測ります。埋葬施設は、墳丘中央部に竪穴式石室が存在し、それを取り巻くように箱式石棺4基、石蓋土壙墓1基の計6基が分布します。  出土遺物は、石室内から出土した人骨以外は認められない。築造年代は、4世紀代と推定される。

殿山古墳群

「花の森公園」に分布

美波羅川の右岸、低丘陵上に分布する古墳群で、前方後円墳2基、方墳3基、四隅突出型墳丘墓、ほか円墳の計38基から構成され、「花の森公園(悠久の森)」となっています。(方墳に関しては四隅突出型墳丘墓とも考えられる)そして、北側に信貞東古墳群(17基)が分布し、西側に川を挟んで上定古墳群(31基)が対峙しています。

浄楽寺古墳群

みよし風土記の丘

馬洗川の支流である美波羅川の左岸、三次盆地の南東部の丘陵上に分布する古墳群で、計116基の浄楽寺古墳群と計60基の七ツ塚古墳群を合わせて県北最大の浄楽寺・七ツ塚古墳群を形成する。みよし風土記の丘として公園整備され、歴史民俗資料館も併設しています。  浄楽寺古墳群は、帆立貝型古墳1基、円墳97基、方墳18基の計116基から構成され、七ツ塚古墳群の北側に分布する。  南の尾根上に位置する1号墳は、全長27.9mの帆立貝式古墳で、2段築成、葺石、周溝を備える。埋葬施設は、墳頂に箱形石棺が推定される。出土遺物は、朱の付着した土師器、須恵器片が出土する。  群中最大の円墳は、径45m、高さ6mの12号墳で、幅2.5mのテラスが設けられ埴輪が並べられていました。埋葬施設は、墳頂に粘土槨が2基確認されている。出土遺物は、鉄鏃、刀子、鉄片、玉類が出土する。  37号墳は、径29.5m、高さ4mの円墳で、葺石、周溝を備える。埋葬施設は、墳頂部に箱形石棺が安置され、蓋石10枚、北側石10枚、南側石9枚、東西小口1枚ずつの板石を使用する。蓋石と蓋石の隙間には、白色粘土で目張りが施されていました。築造年代は、5世紀代と推定。  群中最大の方墳である61号墳は、一辺19m、高さ2.7mを測り、幅4mの周溝が巡る。埋葬施設は、箱形石棺で、棺内から人骨、鉄器片、鉄剣が確認されてます。

海田原4号墳

海田原古墳群を形成

馬洗川の左岸、帆立貝式古墳3基を含む計31基から成る古墳群に属し、カイハラ産業周辺に分布します。  墳丘規模は、全長42m、後円部径36m、高さ5.5m、前方部幅9m、高さ1.5mを測ります。埋葬施設は、不明となってますが、後円部墳頂が大きく陥没しているのが確認できます。  出土遺物は、須恵器片、埴輪が採取されています。築造年代は、古墳時代中期とされる。

矢谷古墳

四隅突出型墳丘墓

三次市東酒屋町、南から北に延びる丘陵尾根上に位置する弥生墳丘墓で、四隅突出型と言う特異な形状を成しています。このような墳形は、出雲地域を中心に日本海側に多く分布する。周辺域は縄文時代から古墳時代にかけての松ヶ迫矢谷遺跡とされ、当墳丘墓も含まれ複合遺跡となっている。  墳丘規模は、全長18.5m 高さ1.2mを測り、貼石、列石が施され、周溝が巡っていました。埋葬施設は、木棺7基、箱式石棺2基、土壙など計11基が認められている。  出土遺物は、北寄り大きめの木棺から碧玉管玉 、ガラス小玉、鉄鉇、鉄刀子が出土。そして、墳丘上や周溝から鼓形器台、壺、甕や特殊器台、特殊壷といった吉備南部の土器類が出土する。築造年代は、3世紀代と推定される。  当墳丘墓は、出雲地方と吉備地方との間に位置する三次盆地にて、双方の影響を受けつつ古墳時代への移行する微妙な時期に地域を治めていた極めて重要な首長墓と考えられます。

糸井大塚古墳

県内最大のホタテ

美波羅川が形成した河岸段丘上に位置する帆立貝形古墳で、県内最大規模を誇ります。  墳丘規模は墳丘長65m、後円部径56m、高さ8~10m、前方部幅19~20m、高さ3mを測り、幅30mの周溝が巡ります。墳丘には、葺石、円筒埴輪、家型埴輪を備えていました。埋葬施設は、未調査のため不明。築造年代は、5世紀前半と推定される。

花園遺跡墳丘墓

総数400基超の埋葬施設

JR三次駅の南側の花園丘陵上に位置する方形台状墓3基、方形周溝墓6基から成る遺跡で、埋葬施設の総数が400基を超えてくると推定されてます。  第1号台状墓は、東西31m、南北20m、北側の高さ1.3mを測り、南、北、東面に貼石や積石を施している。そして、南側に浅い溝にて墓域の境界としている。埋葬施設は、箱形石棺5基、土壙墓11基など215基以上が確認されている。出土遺物は、石棺墓からガラス製管玉が出土。南の溝から壺、器台型土器が出土。  第2号台状墓は、東西14.14m 南北9.03mを測り、第1号台状墓の北西に接して位置する。北と西面は貼石、南面は列石で区画されている。埋葬施設は、箱形石棺4基、土壙墓17基、円形遺構2基などが確認される。出土遺物は、鼓形土器が出土。  第3号台状墓は、第1号台状墓の北、第2号台状墓の東に接して位置する。墳丘規模、溝などの明確な区画が認められていないため不明。埋葬施設は、箱形石棺4基、土壙墓2基、石囲い土壙墓9基などが確認される。  築造年代は、弥生時代前期末から古墳時代初頭と推定される。

若宮古墳

4世紀代に遡る可能性

JR三次駅の南東方向の若宮神社境内に位置する前方後円墳で、前方部を南に向ける。馬洗川、西城川、可愛川の三川が合流して江の川となる北西方向に眺望が開けます。  墳丘規模は、墳丘長36m、後円部径22m、高さ3m、前方部長16.5m、前方部前端幅13m、くびれ部幅11m~12m、高さ1~1.5mを測ります。埋葬施設は、未調査のため明らかではないが、前方部に箱式石棺の一部と思われる石材が一部露出する。  出土遺物は、鉄製釣針が出土。築造年代は、5世紀前半と推定されるが、前方部の形状が細長く、古式の墳形をしていることから4世紀代まで遡るとも考えられます。

酒屋高塚古墳(第二号石室)

みよし風土記の丘

三次盆地を臨む丘陵先端部に位置する帆立貝式古墳で、現在は前方部を失い後円部の一部が残存する。そして、第二号石室が、みよし風土記の丘に移設されています。  墳丘規模は、墳丘長46mを測り、葺石、埴輪を備える。埋葬施設は2基の竪穴石室が確認され、第一号石室は、大半が破壊された状態でした。石室内から画文帯神獣鏡、鉄鏃、鉄斧、鉄鍬、鍬先、鉄刀、鉄釘などが出土。鏡については、宮崎県の持田24号墳や熊本県の江田船山古墳,三重県の神前山1号墳などから出土した鏡と同笵鏡とされている。みよし風土記の丘に移設された第二号石室は、長さ2.72m、幅0.7~0.84m、高さ0.5mを測り、鉄剣、鉄釘、勾玉、ガラス玉、滑石製小玉が出土しています。築造年代は、5世紀後半と推定される。

鏡ヶ宿古墳

出雲へ抜ける国境

島根県との県境、出雲へと抜ける街道沿いの中国山地丘陵先端部に位置する円墳で、横穴石室が露出しています。  失われた墳丘の規模は、径12m、高さ3~4mを測ります。無袖式の横穴石室は、石室長6.2m、幅1.5m、高さ1.7mで南に開口する。石室構造として、奥壁から2.5m手前に石室を区別する石列と更に2.6m手前の入り口に横長の石材を2個配する仕切りを設けている。築造年代は、7世紀前半~中葉と推定される。

高平古墳群

旧林業試験場内に移築

古墳時代後期の群集墳で、現在、横穴式石室2基と弥生竪穴式住居址と共に旧林業試験場内に移設されてます。石室は、基底部のみでの展示となってます。
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