top of page
DSC_0322.JPG

与謝野町

七面山古墳

分断された丘陵東

全長90m超える前方後円墳である白米山古墳の北側丘陵に位置する円墳で、丘陵を国道176号が二つに分断した丘陵西側頂部に七面山神社として残ってます。墳頂部に古い社が建ってます。  墳丘規模は、径20mほどで葺石が認められます。埋葬施設は、竪穴式石室と推測される石材が露出している部分がありますが不明です。

上司古墳

丹後地域最後の首長墓

野田川西岸、丘陵の先端部に位置する古墳で、墳形は定かではない。  墳丘規模は、13m×12m、高さ4.1mで周溝が巡る。埋葬施設は、南東に開口する無袖式の横穴式石室で、全長7.94mを測ります。花崗岩製の巨石を利用した終末期の石室です。  出土遺物は、須恵器片が出土。築造年代は、7世紀前半と推定され、丹後地域最後の首長墓の一つとなります。

作山古墳群

連なる美しき墳丘

野田川右岸中流域の段丘上に位置する5基から成る古墳群で、円墳、方墳、前方後円墳から構成されます。そして、「丹後三大古墳」の蛭子山古墳(全長145m)を含む蛭子山古墳群が隣接し、与謝野町立古墳公園として整備保存されています。また、資料館も併設されてますので情報収集が容易にできます。  1号墳は、造出付きの円墳で径28m、高さ4m、造出幅9m、長さ8mを測り、葺石、段築、埴輪を備えます。埴輪には、丹後型円筒埴輪、家型埴輪が確認されてます。埋葬施設は、墓壙に副室のある組合式石棺が納められており、男性の人骨が出土しました。副葬品として、変形四獣鏡、石釧、大量の玉類出土。また、副室から鉄剣、刀子、鉄斧、鉄鎌、鉄鉋などが出どする。  2号墳は、径28m、高さ3.5mの円墳で、葺石、埴輪を備えます。埋葬施設と推定される壺型土器27個を配列した土器列が墳頂部に検出されている。1号墳と2号墳の周辺では、多くの木棺墓や埴輪棺の埋葬施設が確認されています。  3号墳は一辺17m、高さ2mの方墳で、2号墳と接して周溝が巡る。埋葬施設は、不明。ごく少量の埴輪が確認されている。  4号墳は、墳丘長30mの前方後円墳で、葺石、南側のみに段築を備える。埋葬施設は、花崗岩の一枚岩が確認されていることから石棺が推定されています。  5号墳は南北13m、東西10m、高さ2mの方墳で、1号墳の造出と考えられていましたが再度調査によって独立した墳丘と判明してます。埋葬施設は、墓壙に割竹型木棺が納められています。副葬品として内行花文鏡、勾玉類、鉄製品などが出土しています。築造年代は、古墳時代前期後葉から中期前葉と推定され、北側から5号墳→1号墳→2号墳→3号墳→4号墳の順に築造される。

入谷西古墳群

方から円に移行の古墳群

眼下に須代銅鐸出土の環濠集落須代遺跡(弥生時代中期)を望む丘陵上に分布する総数48基の古墳群で、A~F支群の6つから構成されます。同丘陵上は、入谷・宮ノ越古墳群など200基を超える大群集墳地帯となります。  主尾根線上には、A支群27基が分布する。3号~18号墳は主に円墳、19号~27号墳は主に方墳が分布しており、丹後地方での小型墳丘が丘陵麓に下るにつれて方形から円形に移行していくのが見て取れます。  A1号墳は、尾根先端に位置し、墳形不明ながら横穴式石室と見られる石材が残る。花崗岩の割石を小口積みした石室は、全長6m、玄室長3.89m、幅2.26m、高さ1.5m、前庭部長2.11m、玄門幅0.86m、開口部幅1.6mを測ります。そして、左側壁側に1号棺、右側壁側に2号棺が納められ、いずれも組合式木棺とされる。  出土遺物は、銅環、鉄鏃、刀子、馬具、須恵器、土師器が出土。築造年代は、6世紀中葉と推定される。(古墳群全体としては、6世紀代と推定)

後野円山古墳群

2基から成る

野田川の東岸、中位段丘上に位置する2基から構成される古墳群です。  1号墳は、径31m、高さ4.5mの造出付きの円墳で、葺石、2段の段築、周溝を備えます。造出は、北側周溝内に短く有し、水鳥型、家型埴輪が確認されている。墳丘中段テラスには、円筒埴輪、朝顔形埴輪が樹立。葺石は、古墳直下の温江川より採取したものを使用し、二重に取り巻いています。埋葬施設は、竪穴式石室が推定される。  2号墳は、1号墳の南東に位置する一辺17mの方墳で、葺石を備え、段築は認められない。墳丘四方に幅3mの周溝が巡る。1号墳のように形象埴輪はなく、円筒埴輪、朝顔形埴輪が確認されている。埋葬施設は、2基並行して竪穴式石室が存在します。  両古墳の築造年代は、1号墳が先行するかたちで5世紀後半と推定される。

油田古墳

9基の古墳群

全長90m超える前方後円墳である白米山古墳の東側の丘陵に位置する円墳で、丘陵最高地点に位置します。丘陵には、9基の墳丘が分布していて古墳群を形成しています。  墳丘規模は、径28mほどの円墳で、埋葬施設など他詳細は、不明です。

温江丸山古墳

隣の谷垣遺跡との関係性

与謝野町立古墳公園から山沿いの道を南下すると道路西側、小虫神社北西に建材屋があり、そこに当古墳である大型円墳がありました(現在は消滅)。また、東に谷垣遺跡が隣接します。  墳丘規模は、径65m、高さ8.5mを測り、葺石、段築、埴輪を備える。墳丘自体は、消滅前でも3分の1は開墾され半壊状態でした。さて、谷垣遺跡との関係性ですが、3基の埴輪棺が発見されており、「山陰型特殊器台型埴輪」という丹後地域出現期における特異な形状の埴輪となります。調査が進行して、わかったことが埴輪棺はもともと丸山古墳に樹立していた埴輪であって、周辺埋葬として二次利用された可能性を考えられています。作山古墳群でも同様なことが推定されている。  埋葬施設は、墳頂の竪穴石室に花崗岩製の組合式石棺が納められていました。出土品は崖下より、いずれも破片で三角縁神獣鏡、方格規矩変形獣文鏡、鉄刀が出土している。築造年代は、古墳時代前期と推定。

滝岡田古墳

金張太刀が出土

与謝野町滝岡田の河岸段丘上先端に位置する円墳で、「たきおこだ古墳」と呼びます。横穴式石室が露出していた状況でしたが、現在は保存整備され大変見学しやすくなってます。  墳丘規模は、復元径18.4mを測り、外表施設は認められない。埋葬施設は、全長9.28mの右片袖式横穴石室で、人頭大の川原石が敷かれている。  出土遺物は、金張太刀、鉄刀、鉄鏃、馬具、金環、玉類、須恵器が出土。築造年代は、6世紀末~7世紀初と推定される。

白米山古墳

築造当時で最大規模

野田川を望む中位段丘上に位置する前方後円墳で、5基から成る白米山(しらげやま)古墳群に属しています。現在でも柄鏡式の形の良い墳丘を残してます。  墳丘規模は、墳丘長90m、後円部径54m、高さ7.5m、くびれ部幅28m、前方部幅32m、高さ5mを測り、2段築、葺石を備えます。段築下段は地山整形、テラス面は円礫敷き、埴輪は認められない。埋葬施設は、後円部頂に竪穴式石室、土壙墓2基、木棺直葬、テラス面に小石槨、石棺直葬、墳丘周辺に方形周溝墓2基、割竹型木棺直葬、土壙墓4基が確認されている。竪穴式石室では、石室を囲み前方部に開いたT字形に杭を打ち込み、復円部縁辺で柱列を巡らせています。  出土遺物は、方形周溝墓から刀子、割竹型木棺からヤリガンナが出土。築造年代は、古墳時代前期中葉と推定され、築造当時最大規模です。
Placeholder Image

蛭子山古墳

「丹後三大古墳」の1基

野田川右岸中流域の段丘上に位置する前方後円墳で、網野銚子山古墳(198m)、神明山古墳(190m)、当古墳とで日本海側でトップ3の規模を誇る前方後円墳で、「丹後三大古墳」と呼ばれます。当古墳の1号墳を含めて8基で蛭子山古墳群を形成しています。そして、5基から成る作山古墳群が隣接し、与謝野町立古墳公園として整備保存されています。また、資料館も併設されてますので情報収集が容易にできます。  墳丘規模は、墳丘長145m、後円部径100m、高さ16m、前方部幅62m、高さ11mを測り、「丹後三大古墳」ナンバー3となります。3段築成、埴輪、葺石が認められ、墳頂面と上段テラスには円礫敷きとなる。  埋葬施設は、3基確認され中央第1主体部は、花崗岩製の刳抜型舟形石棺を礫床上に直葬し、東側第2主体部は竪穴式石槨、西側第3主体部は木棺直葬が確認されている。第1・第2主体部は、南北に主軸が直行し、第3主体部が墳丘主軸に直行する。  副葬品は、棺内から内行花文鏡 、三葉環式鉄刀、棺外から鉄刀、鉄剣、鉄槍、鉄鏃、鉄斧、鉄槍鉋が出土。また、埴輪では丹後型円筒埴輪、朝顔形埴輪、短甲、鶏形、家形型の形象埴輪が出土している。築造年代は、4世紀中頃と推定される。

鏡山古墳

不正形な円形墳

野田川の右岸、国道176号線東側の田畑に位置し、不正形な円形状の墳丘が残ってます。古墳名は、字に由来しているようです。  墳丘規模は、東西31m×南北18m、高さ4mを測る。詳しい調査が行われていない為、墳形、主体部などは、不明。しかしながら、墳丘上に大型の石材が露出していて、サイズから横穴式石室と推測されます。

鴫谷東古墳群

土橋で繋がる

与謝野町温江の小丘陵に分布する古墳群で、円墳や方墳の21基から構成されます。  もっとも平野部近い1号墳は、径54m、高さ11mの円墳で、葺石、段築を備えます。そして、中位テラス、墳丘裾部に埴輪を巡らします。さらに、一定の間隔で木の埴輪が樹立されていたと推定される穴が検出されている。埋葬施設は、墳頂に割竹形木棺が2基確認されている。  1号墳の南西に位置する2号墳は、東西20m、南北16m、高さ3.5mの地山整形を基本とした楕円の墳丘をしています。墳頂と裾部に埴輪列が確認されている。埋葬施設など他詳細は不明。  1号墳の南に隣接する3号墳は、東西10.5m、南北7.5m、高さ2.5mの地山整形を基本とした方墳で、土橋によって1号墳と繋がっている。墳頂には、墓壙を囲うように方形の埴輪列があり、組合式木棺が2基納められていました。築造年代は、ともに5世紀前半と推定される。
bottom of page