top of page

湖南市

園養山古墳群

総数200基を超える

野洲川の左岸、烏ヶ岳中腹から山麓にかけて分布する総数200基を超える横穴式石室を主体部とする円墳から成る古墳群です。天台宗華蔵山園養寺の周辺域に群集しています  古墳群は、A支群59基、B支群74基、C支群28基、D支群29基の4支群から構成されている。径10m前後の円墳で、横穴石室の状態の良いものは30基を切ってきます。

六反古墳群

緑化技術センター内

阿星山から派生する広野川によって形成された扇状地中央付近に分布する古墳群です。現在は(株)高速道路総合技術研究所 緑化技術センター内に1基を残すのみとなっています。  墳丘規模は径15mほどで、幅2.5mの周溝が巡っていました。埋葬施設は、玄室長4.32m、幅1.6m、高さ1.69m以上、羨道幅長4.3m、幅1.12mの両袖式の横穴石室です。特筆すべきことは、玄室天井部と羨道天井部は、羨道部が一段低くなるのが通常だが、当古墳においては水平になっている点があります。  出土遺物は、銀環、高坏、提瓶、杯身、杯蓋が出土。この他、出土遺物には11世紀以降の遺物が含まれており、平安時代後葉頃に再葬されている。築造年代は、6世紀末と推定される。

塚越古墳

別名「小森古墳」

野洲川に流れ込む広野川の右岸、田んぼに残る円墳で、農道が古墳を迂回して残されてます。別名「小森古墳」とも言われる。当古墳に触ると病気を発症するといった事や神輿を埋納したという言い伝えが残ってます。  小型の円墳ですが、横穴石室を主体部としており、石室石材が露出しています。築造年代は、古墳時代中期末~後期初期と推定される。

将軍山古墳

将軍塚古墳西側に移築

北摂山地から南に派生する丘陵鞍部に位置した前方後円墳で、将軍塚古墳(1号墳)を含む6基の将軍山古墳群を形成していました。当古墳である将軍山古墳(2号墳)は、調査後に将軍塚古墳(1号墳)横に竪穴式石室が移築されています。  墳丘規模は、全長107m、後円部径70m、高さ13m、前方部幅44mを測り、段築、埴輪、葺石を備える。そして、前方部を南に向けていました。埋葬施設は、長さ10.14m、幅7.14mの墓壙に、結晶片岩によって積み上げられた内法長6.4m、幅1m、高さ0.8mの竪穴式石室が墳丘主軸と直交するかたちで東西方向に確認されています。  出土遺物は、鉄剣、鉄刀、短甲、硬玉製鏃形石製品、銅鏃、鉄鏃、釣針状鉄製品、玉類などが出土。築造年代は、4世紀後半と推定される。

正福寺塚山古墳

正福寺の南東に開口

野洲川の中流域右岸、菩提寺山の西麓裾部に位置する円墳で、浄土宗正福寺の南東に残ってます。周囲の各支谷には、数基単位の古墳群が分布する。  墳丘規模は径30mほどの円墳で、幅3mほどの周溝が巡っていました。埋葬施設は、左片袖式の横穴石室で全長10.95m、玄室長5.45m、幅2.42m、高さ2.72m、羨道長5.5m、幅1.51m、高さ1.21mを測ります。現状、羨道部は一部失われ、玄門部前壁の上部石材も失ってます。築造年代は、6世紀末~7世紀初頭と推定される。
Placeholder Image

宮の森古墳

円筒埴輪三段に配列

石部町平野部を見渡すことのできる丘陵先端部に位置する前方後円墳で、吉姫の里あけぼの公園となってます。  墳丘規模は前方部が失われているため、推定全長約100mとされる。埋葬施設は、損壊が激しく粘土槨であったと考えられる。墳丘には、墳頂・中位・最下位の三段に円筒埴輪列を巡らせていたことがわかってます。墳頂部埴輪列は、約10cm間隔で総延長約30mの約90本、中段部は、東側と西側で数ヵ所の確認のため推察不可能とされる。最下位の埴輪列は、東斜面から10本出土する。埴輪の間隔は南側から4本目までは45~75cm、中央付近で約10cm、9本目と10本目は80cmとなる。出土した総延長は約5.5mとして、全周で約150mであることから約270本が配列されていたと考えられます。  出土遺物は、鉄刀、鉄槍、鉄剣、鉄鏃、鉄釘が出土。築造年代は、5世紀代と推定される。
bottom of page