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新城市

磨訶戸古墳群

1号で良好な石室

豊川の左岸、摩訶戸神社の周辺域で東西約200m、南北約700mの広範囲にわたって分布する。15基ほどから成る古墳群で、前方後円墳2基、積石塚1基、他は円墳で構成される。現在残るのは8基とされますが、墳丘らしきものが複数確認できます。  10号墳(全長16.3m)と13号墳(全長28.3m)は、それぞれ小型の前方後円墳となり、10号墳では後円部が削平されています。  1号墳は、径12.3m、高さ3.4mの円墳で、唯一良好な横穴石室を見ることができます。石室は、両袖式の横穴石室で 石室長4.5m、幅1.95m、高さ1.7mを測ります。開口部は、ブロックで加工されていますが、内部はほぼ完存しています。築造年代は、石室形状から6世紀後葉~7世紀初頭と推定される。  出土遺物は、詳しい調査が行われていない為、13号墳で採取された須恵器のみが唯一となっています。

断上山古墳群

粕塚・物見塚

豊川の上流域、設楽ヶ原を見下ろす丘陵上に分布する古墳群で、前方後方墳1基を含む、10基ほどから構成される古墳時代前期の古墳群です。また、付近には南貝津遺跡が存在し、長篠設楽ヶ原の戦いの時に家康の本陣が置かれた場所でもあります。  なかでも10号墳は、全長50ⅿ、後円部一辺30ⅿ、高さ6ⅿ、前方部長20m、幅14m、高さ2.5mを測り、前方部を撥型に開いた古式の形状を成している。墳丘の北側と東側に幅6mほどの掘削上の堀が確認できます。築造年代は、4世紀前半と推定される。  そのほか9号墳は、現状で一辺20mほどの方墳とされ、東三河最古式の一つです。古墳群は、10号墳を中心に3世紀~4世紀代にかけての古墳群を形成しています。

茶臼山古墳群

設楽原合戦場

新東名高速道路の長篠設樂原パーキングの南東側に分布する3基の円墳から成る古墳群です。茶臼山は、設楽ヶ原の合戦で信長が本陣を構えたところとなり、丘陵麓以外から長篠設樂原パーキングからも階段がついており登って行くことができます。古墳群は、その丘陵頂部(本陣跡)から南にやや下った所に分布するが、1号墳のみ確認することができます。  1号墳には、白い標柱が建っており、半壊した横穴石室が露出しています。他詳細は不明。

地蔵山古墳群

6基の古墳群

豊川の左岸、新城市八名井上屋敷八の丘陵上に分布する6基から成る古墳群です。確認できたのは5基となります。状態が良い墳丘はありませんが、見学しやすい古墳群です。一部石材が露出したものや天井部が一部開口しているものが残ってます。他詳細は不明。

夜泣石古墳

この墳名、いわくあり

平尾山と吉祥山に挟まれた別所街道(R81)沿いの畑の中に位置する古墳群です。10基ほどから成る古墳群ですが、現存するのは2基となっており、1号墳(夜泣石古墳)と2号墳とが隣接して残ってます。  夜泣石古墳には、夜に泣いて困る時には、この石にお願いをすると不思議と泣き止むと言われています。また、子供が夜泣きをして泣き止まない時に、古墳周辺の土を持ち帰って枕元に置いておくと、子供が夜泣きをしなくなるという伝説があります。これは、ある民話に基づいております。それは、「昔、この富岡の大原の地のほとりに、都の戦いから逃れてきた高貴な婦人とその子供が住んでいました。ある日、婦人は子供を寝かせて、川に洗濯に行きました。すると、そこに敵方の追手が現れて、子供をさらって行きました。子供の泣き声に気づいた婦人は、後を追いかけましたが、この古墳の所に来た時に追手の者がその子供を刺殺してしまいました。わが子を殺された婦人は、その場で7日もの長い間泣き崩れて、とうとう石になったと言う事です。それから、夜になるとその石が泣き始めたそうです。(新城市HP抜粋)  墳丘は、ともに径17.8m、高さ2.5mの円墳です。現状、石室石材の一部が露出するのが確認できます。  出土遺物は、3号~5号墳が開墾によって破壊された時に、直刀、鍔、轡、勾玉、管玉、須恵器が出土しています。築造年代は、古墳時代後期とされる。

勝変塚古墳

別名「小便塚」

豊川の左岸、その豊川に流れ込む宇利川沿い北側の低い段丘上に築かれた古墳で、「勝変」というお坊さんを祀った墓であると言われてます。別名「小便塚」とも言われ、「勝変(しょうへん)」から訛ったものと考えられます。畑の中に、白い標柱が立ってます。  墳丘は、径8m、高さ1.7mほどの円墳で、横穴式石室を主体部とします。状態は良いとは言えず墳丘が流失し、横穴石室の石材が露出する。他詳細は不明。

庭野古墳群

庭野神社境内に分布

豊川の左岸、新城市庭野にある庭野神社境内に分布する3基の古墳群です。  3基とも径10mから12mほどの小型の円墳となる。埋葬施設は不明ですが、3号墳で石室の石材が一部露出している。他詳細は不明。

川田原古墳群

36基の群集墳

豊川の右岸、本宮山の東南麓に分布する川田原台地上に分布する36基の円墳から成る古墳群です。豊川を挟んで、豊川市と境界を接する。その対岸には、30数基の積石塚の旗頭山古墳群が位置しています。  36基あった古墳は20数基まで数を減らし、そのうち15・16・22・23・24号墳の5基で調査が行われました。22号墳は、両袖式の横穴石室を主体部とし、玄室長3.8m、幅0.9m~1.5m、前室長3.2m、幅1〜1.2m、羨道長1.6mを測ります。石室形状は胴張りで、三河地方に多く見られる玄室と前室を区切るための袖部として立柱石を立ている。出土遺物は、人骨、鉄鏃、刀子、金環、須恵器などが出土。築造年代は、7世紀末~8世紀初頭と推定される。
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