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松山市

小山田・原池遺跡石棺

愛媛県埋文に屋外展示

原池遺跡石棺は、大谷川上流域の上三谷の丘陵斜面で検出された箱式石棺です。花崗岩と緑泥片岩で構築されおり、朱彩が施され、熟年女性が1体東側に向いて埋葬されていました。築造年代は、粘土被覆を伴うことから5世紀代に位置づけられる猪の窪古墳との構造上の類似点から古墳時代の前段階の4世紀~5世紀代と推定されてます。  小山田遺跡1号石棺は、北条市庄地区の背後にある山の一つ「折木山」と言われる山頂部にあった箱式石棺です。山頂からは斎灘を見通すことができ、眼下には小山田地区を臨むことができます。  墳丘は、自然地形の山頂部に一部手を加え、整形を施した径10m程の円墳です。埋葬施設は、長辺3.2m、短辺1.98mの墓壙に長さ1.72m、幅0.26~0.36mの花崗岩を用いた箱式石棺が納められていました。  出土遺物は、石棺や墓壙からは人骨以外の遺物は全く出土していない。築造年代は、粘土被覆や充填方法が行われておらず、他の粘土を使用している石棺が4世紀後半~5世紀前半に比定されていることから、これらに比べてやや後出するものと推定される。

東山古墳群

「伊予三山」東山に分布

小野川の左岸、松山平野ほぼ中央に位置する独立丘陵である東山に分布する古墳群で、「伊予三山」と称される山の一つでもあります。現在、東山古墳公園(星が岡西公園)として整備保存されています。丘陵頂部の数基を除いては、はっきりとした墳形がわかりにくいのが現状です。  当古墳群は、これまで29基が確認され、うち調査された古墳は13基となる。墳形は、径10m~20mほどの円墳10基と方墳2基があり、埋葬施設が横穴式石室7基、竪穴系横口石室3基、竪穴式小石室1基、木棺直葬2基となっている。中期古墳として丘陵中腹に方墳が分布し、後期古墳では円墳が中心となり、横穴式石室と竪穴系横口石室が備わる。そして、竪穴系横口石室は、頂上部付近に構築されています。  出土遺物は、人骨、耳環、玉類、腕釧、鉄鏃、鉄斧、馬具、須恵器、円筒埴輪などが確認さている。出土した須恵器は、市場型須恵器であることが明らかになっており、朝鮮半島文化と何らかの接点を持ち得たことを示すものと考えられます。築造年代は、6世紀末~7世紀後半と推定。

客谷古墳群

松山総合公園に分布

松山城の西方に位置する独立丘陵である大峰ヶ台丘陵西裾側に分布する7基から成る古墳群です。また、主丘陵部には弥生時代の集落が存在したこと考えられている。現在、松山総合公園として整備保存されています。  1号墳は、径17mほどの円墳で、両袖式の横穴石室が西向きに開口する。石室規模は、全長6.44m、玄室長3.9m、幅1.8~ 1.9m、玄門幅1m、羨道部長2m、幅1.4mを測ります。出土遺物は、工具類、武器、装身具、土師器、須恵器などが出土。2号墳は、東西径15m(現存)ほどの円墳で、2基の横穴石室が確認されている。A石室は、横穴式石室で石室長5. 5m、玄室長3m、幅1.8m、羨道部長1.7m、幅0.9mを測り、羨道部は再構築した跡が見られ、片袖式への移行が確認できる石室です。B石室は、両袖式の横穴石室で石室長4m、玄室長2.75m、幅1.2m、玄門幅1.1m、羨道部長1m、幅1.1mを測り、A石室に比べ小型となっている。出土遺物は、人骨、武器、工具、玉類、装身具、須恵器、土師器が出土する。古墳群の築造年代は、6世紀~7世紀代と推定される。

高月山古墳群

松山考古館展示(2号石棺)

高月山山頂より北西方向に派生する尾根上に分布する7基から成る古墳群です。現在、2号墳の箱式石棺が松山考古館に移設展示されてます。  墳丘規模は、径16m×10mの長円墳で、1.9mほどの周溝が巡ります。埋葬施設は、全長260cm、幅210cm、深さ90cmの長楕円形の墓壙に箱式石棺が納められていました。  出土遺物は、鉄剣、柳葉型の銅鏃、鉄斧、鍬、鉄鎌、壺型土器が出土。築造年代は、4世紀末~5世紀初頭と推定される。

八ッ塚群集墳

衞門三郎の8人の子を祀る

重信川に流れ込む御坂川の左岸、松山平野の南側に残る8基から成る古墳群です。  墳丘規模は、円墳で径7m~14m、方墳で一辺10mほどを測ります。埋葬施設は、未調査ですが横穴式石室と考えられています。築造年代は、古墳時代の終末期と推定される。  塚の頂部には祠があり、地蔵が祀られています。四国遍路の元祖といわれる衞門三郎の8人の子を祀ったとの伝説が残っております。

葉佐池古墳

未盗掘の石室見つかる

石手川に流れ込む支流である小野川の左岸、通称「小山」という独立丘陵上に位置する古墳です。土地所有者が開墾中に未盗掘とされる横穴式石室を発見し、話題となりました。現在は、葉佐池古墳公園として整備保存されています。  墳丘規模は、長径41m、短径23mを測り、長円墳とされますが、前方後円墳の可能性が考えられています。埋葬施設は、3基の横穴式石室と2基の竪穴式石室の計5基が確認される。1号石室は、両袖式の横穴石室で、全長4m、玄室長2.8m、幅1.4m、高さ1.8mを測り、木棺2基が安置されていました。2号石室は、こちらも両袖式の横穴式石室で、全長7.1m、玄室長3.7m、幅2.3m、高さ2.4mを測り、木棺が安置されていました。  出土遺物は、墳丘から馬骨、土師器、須恵器、1号石室から人骨、鉄斧、鉄鏃、須恵器(短頸壺、𤭯)、2号石室から人骨、鉄鏃、玉類、耳環、馬具、土師器、須恵器(子持壺、𤭯)が出土しています。なかでも1号石室のB棺の人骨からは、ハエの囲蛹殻が検出されており、遺体を一定期間保管して殯(もがり)のようなことが行われたことが考えらています。築造年代は、6世紀代中頃と推測される。

潮見山古墳群

葉佐池古墳に後続

潮見山丘陵西側に位置する小丘陵中腹に分布する古墳群で、A石室~E石室(15号~17号墳)で詳しい調査が行われています。  調査された15号墳(B石室)・16号墳(C石室)・17号墳(D石室)では、横穴石室を主体部とし、15号、16号墳で二重に敷石が施されていることがわかっている。出土遺物は乏しく、どの古墳に伴う遺物かは判断できないが、調査区域で須恵器(蓋杯、高杯、甕、壷、平瓶、子持壷)が出土している。築造年代は、6世紀末~7世紀前半と推定される。すぐ南側に位置する葉佐池古墳に後続する古墳群と考えられます。  その他、現存する3号墳、石材のみ残存する4号墳、お室を祀る7号墳を確認しています。

駄馬古墳

鳥越1号墳

小野川の右岸、葉佐池古墳の対岸になる北側に位置する古墳で、墳丘が流失し、横穴石室が露出しています。石室は、南東方向に開口する両袖式の横穴石室で、全長4.7m、玄室長3.2m、幅1.8~2.1m、高さ1.8mを測ります。露出する石室は、一部側壁を失い、全体的に歪み大変危険な状態となってます。築造年代は、6世紀末~7世紀初頭推定される。

五郎兵衛谷古墳群

11基の墳丘が確認される

松山平野の北東部、高縄山系南面に派生する支脈丘陵裾部に分布する古墳群で、11基ほどの墳丘が確認されている。そのうち7基で調査が行われています。高縄山系の南西斜面には、東野古墳群、久米・鷹子古墳群、平井古墳群、小野谷古墳群、播磨塚古墳群と古墳群密集地域となっている。五郎兵衛谷古墳は、そのうちの久米・鷹子古墳群に属しています。  確認できるもので墳丘規模は10mを超えるぐらいの円墳群です。主体部は、6号墳で竪穴式石室が確認されている以外は、横穴式石室を主体部とします。  詳しい調査が行われた7号墳は、13mほどの円墳で、幅1m ~1.4m、深さ0.2m~0.44mの周溝が巡っていました。埋葬施設は、割石を用いた両袖式の横穴石室で、全長6.74m、玄室長4.6m、幅1.45 ~ 1.7m、羨道長2.14m、幅1.1mを測ります。石室形状は、やや胴張りの長方形プランに持ち送りが強い側壁となっている。そして、床面に川原石で敷石が施されています。  出土遺物は、耳環 、鉄製刀子、碧玉製管玉、水晶製切子玉、鉄鏃、土師器、須恵器、円筒埴輪が出土。このほか1号墳では、鉄鏃、鉄鉾、刀子、三累環頭大刀、耳環、丸玉が出土。6号墳では、非陶邑系須恵器含む須恵器が出土しています。築造年代は、6世紀末~ 7世紀初頭と推定される。

波賀部神社古墳

松山平野で現存最大級

重信川の右岸、沖積上に位置する前方後円墳で、前方部をほぼ西に向けた墳丘が波賀部神社社殿裏に残ってます。  墳丘規模は、全長62m、後円部径28m、高さ6.66m、前方部長30m、前方部幅28m、高さ6.13mを測り、松山平野に現存する前方後円墳で最大規模とされます。埋葬施設は、一部露出した石材より横穴式石室と考えられています。  出土遺物は、円筒埴輪、須恵器が出土。築造年代は、6世紀代と推定される。

経石山古墳

一字一石

重信川に流れ込む石手川の左岸、洪積台地上に位置する前方後円墳で、前方部上に小さな祠があり、後円部には「経石山」の名が付けられる元となる一字一石と刻んだ碑があります。 墳丘規模は、墳長56m、後円径29m、高さ5m、くびれ部幅、前方部長26m、12.3m前方部幅20m、高さ3mを測り、前方部を西に向けます。また、後円部は、わずかに窪みが見られるが、埋葬施設は未調査のため不明。  出土遺物は、須恵器が出土。築造年代は、5世紀末~6世紀中頃と推定される。

鎌大師古墳

鎌大師境内に開口

下池の北側、鎌大師堂(風早四国第六十九番札所)の境内に、横穴式石室が大きく開口しています。奥壁側には、石仏が安置されている。他詳細は不明。

難波奥谷古墳

県内最大級の横穴開口

立岩川の北側、庄集会所の北東丘陵麓に位置する古墳で、県内最大級の横穴開口しています。  墳丘規模は、径15m~20mほどの円墳で、横穴式石室を主体部とします。石室は、南向きに開口する花崗岩を用いた両袖式の横穴石室で、全長12m、玄室長6m、幅2.1m、高さ2.5m、羨道長6m、幅1.3m、高さ1.8mを測ります。  出土遺物は不明ですが、石室の形状などから6世紀~7世紀代の築造と推定される。

善応寺古墳

大正池の東側に位置

河野川の右岸、大正池の東側丘陵上に位置する古墳で、現在は河野神社が祀られている。  両袖の横穴石室で、玄室長4.8m、幅2.2m、高さ2.8m(現存長2.8m、幅1m、高さ1.9m)を測り、南西に開口します。出土遺物は、人骨、銅鏡、刀剣、玉類、過紋土器が出土と伝わるが、散逸して残っていないのが現状です。

国津比古命神社古墳

櫛玉比売命神社古墳

立岩川左岸、北条市内を見渡す丘陵上に2基の古墳が隣接し、北側に位置するのが国津比古命神社古墳、南側に位置するのが櫛玉比売命神社古墳となります。  国津比古命神社古墳は、全長50mほどの前方後円墳で、墳丘の大部分が神社の境内となっていて、墳丘の一部と葺石が確認されています。  櫛玉比売命神社古墳は、全長75mほどの前方後円墳で、竪穴式石室が主体部と考えられている。社殿建設の際に勾玉が出土している。この他、埴輪も採取され、葺石も認められる。  築造年代は、両古墳ともに古墳時代前期と推定される。
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北谷古墳

石室埋め戻し

松山市福角町の若宮神社背後の丘陵上に残る古墳で、横穴式石室が露出していました。現在は、石室保護のため、埋め戻して石室を見学することは出来ません。  墳丘規模は、復元推定径20m、高さ5mを測ります。横穴式石室は残存長8.1mとされるが、復元推定9.6m 玄室部長4.5m、幅2m、高さ2.4mを測ります。築造年代は、6世紀後半~7世紀初頭と推定される。
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