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鈴鹿市

鈴鹿市

乗鞍古墳

後円部大きく陥没

鈴鹿川に流れ込む支流、浪瀬川の東に位置する前方後円墳で、消防学校の北側に鬱蒼とした木々に覆われ残ってます。  墳丘は全長43mほどで、後円部が大きく陥没しています。埋葬施設は、おそらく横穴石室と思われます、出土遺物など他詳細は不明。

保子里古墳群

見どころは双円墳

鈴鹿川の右岸に分布する古墳群で、前方後円墳、円墳、方墳、双円墳など10基で構成される。現在は、鈴鹿回生病院の駐車場などに残ってます。  1号墳は、古墳群最大の見どころである双円墳で径20mほどの円墳が連なってます。副葬品として、垂飾付耳飾、銀象嵌刀装具など豪華なものが出土しています。2号墳は、全長23mほどの前方後円墳で、鈴鹿川流域最小クラスです。8号墳は、一辺11mの方墳で周溝が巡る。わずかな粘土層が確認されたことから,粘土床を伴うものと考えられます。13号墳は、径10mほどの円墳で、墳頂北寄りで円筒埴輪棺が出土しています。11号墳は、径11mの円墳で、粘土床の一部が検出されたことから、木棺を粘土で覆った可能性が考えられます。18号墳は、径13.3m、高さ0.6~1.6mほどの円墳で、ほかの古墳と埋葬施設が異なり、横穴石室を備える。  当古墳群は、6世紀前半~7世紀初頭にわたり築造されたと推定されてます。

双児塚古墳群

双児塚伝承地

御幣川左岸の台地上に分布する古墳群で、双児塚の名前の由来は2基の円墳が並び、日本武尊が双子だったという事に由来する。しかしながら、古墳群は3基から構成される。  1号墳は、径17m、高4mhほどで小型の横穴式石室が開口する。1号墳の北側にある2号墳は、径10m、高さ2mで低い墳丘が残ってます。さらに奥に径17m、高さ4mの3号墳あるようです。

岸岡山古墳群

片岡山と呼ばれる独立丘陵と海岸寄りの砂丘地帯にわたって38基の古墳群が分布していなす。その多くは墳丘を失い、須恵器、円筒埴輪、形象埴輪の出土によって、所在が確認されたものがほとんどです。  古墳群で最大の古墳は、岩ヶ谷に位置する前方後円墳の22号墳で、全長53.5mを測ります。埋葬施設は不明ですが、円筒埴輪、形象埴輪、須恵器が出土しています。築造年代は、5世紀後半と推定。見当山の最高所にある21号墳は、全長33mの前方後円墳で6世紀前半の築造と推定。その他の小さな古墳は、木棺直葬とされ副葬品が採取されたことによって確認されたました。唯一の石室をもつ方墳の39号墳は、南に開口する横穴石室備えていますが、床面の敷石以外は失われていました。副葬品は、鉄刀、刀子、砥石、須恵器蓋坏、高坏、平瓶、器台が出土。築造年代は、6世紀後半と推定される。  周辺域は、縄文、弥生時代から古墳時代、中世の城跡と多くの遺跡が分布する複合遺跡地帯となってます。

王塚古墳

盾形の周壕巡る

鈴鹿川の右岸段丘上の縁辺部に位置する前方後円墳で、西の野古墳群に属します。王塚古墳は、その群中でもっとも大きく、1号墳に該当します。ただ、墳丘の状態は波打つようになっている所もあって決して状態が良いとは言えません。  墳丘規模は、墳丘長63m、円部径38m、高さ6m、前方部幅48m、高さ6.5mを測り、盾形周壕を含めると全長90m(最大幅73m)に及びます。東側のくびれ部には、造出が設けられています。  後円部墳頂は、盗掘を受けており副葬品などの詳細は不明。築造年代は、5世紀後半~6世初頭と推定される。

白鳥塚古墳

ヤマトタケル白鳥伝説

鈴鹿川の中流域、台地の端部に位置する帆立貝式古墳で、以前は県内でも有数の大型円墳と見られていました。周囲には、6基の古墳が分布していて白鳥塚古墳群を形成する。白鳥塚の名前の由来は、教部省が明治9年にヤマトタケル陵墓と治定されたことから付いています。(その後、明治12年に宮内省は、亀山市の丁子塚に治定を変更しています。)  墳丘規模は、全長92m、墳丘長80m、後円部径 64m、高さ 9m、前方部長15.5m、前方部幅27m、周溝幅7mを測ります。墳丘には基壇の上に2段築の墳丘が存在し、葺石、埴輪片が検出されています。埋葬施設は、明治期の盗掘壙から横穴石室と推測されているが確たるところは不明です。  築造年代は、出土した円筒埴輪片、蓋形埴輪片から5世紀前半と推定される。

石丸野1号墳

墳丘頂部に祭祀遺構

安楽川の右岸、本田技研工業鈴鹿製作所の東に残る前方後円墳で、現状、前方部は削平されています。  墳丘規模は、全長46.8m、後円部径24.3m、高さ10m、くびれ部幅8mを測り、形の良い後円部を残してます。埋葬施設は、木棺直葬とされ、墳頂端に祭祀遺構と見られる土器の配置が確認されてます。  出土遺物は、盗掘によって乏しいが土師器、須恵器が出土。築造年代は、5世紀代と推定される。
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舟塚古墳

かつては船着場

鈴鹿川の右岸、鈴鹿川を見下ろす台地先端部に位置する円墳で、公園整備され、すぐ横にはクリーンセンターがあります。かつては伊勢湾から舟の往来があり、付近が船着場であったことから舟塚古墳と言われるそうです。  墳丘規模は、径15m、高さ2mを測り、周囲に幅1.5mほどの周溝が巡る。周溝から土器片が出土。ほか出土品は確認されていない。築造年代は、6世紀頃と推定される。

西ノ野古墳群

北伊勢で最大級

鈴鹿川の右岸段丘上の縁辺部に分布する古墳群で、北伊勢地区最大級の91基確認されている。戦後の開墾によって現存11基ほどに減少し、王塚古墳(1号墳)、椀塚古墳(11号墳)、5号墳と3基の前方後円墳が確認されてます。  王塚古墳の南に位置する5号墳は、全長30.5m、後円部径21.5m、高さ3.4m、前方部幅15m、高さ1.8mを測ります。後円部中央から家形埴輪、人物埴輪、くびれ部から円筒埴輪が出土。周囲には盾形の周溝が巡る。前方部幅が後円部より狭く、前方部の高さが低いことから王塚古墳よりは古い形式の5世紀中頃と推定される。このほか10m~15mほど円墳が、周囲に分布する。  11号墳は、全長50mの前方後円墳で,椀塚と呼ばれます。ここに願をかければお椀が出てくるという伝説からそう呼ばれていたようです。  16号墳は、径9mほどの円墳ですが、周溝に近接して4基の土壙墓が確認されています。6世紀の初頭と推定される。  また、古墳群を見下ろす南丘陵上には、前方後円墳の愛宕山古墳が存在します。3基の前方後円墳と同一系譜に連なる首長墓と考えられます。
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