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伊勢崎市

お富士山古墳

長持形石棺見れます

広瀬川の左岸、ちょうど荒砥川と広瀬川が合流する北東台地上に位置する前方後円墳で、両毛線によって前方部の一部が削平されてますが、長持形石棺があって、墳丘を含めて良く残っているほうだと思われます。  墳丘規模は全長125mを測り、3段築成で中段と墳丘裾部の2段に大型の円筒埴輪が配列されていました。周囲には、周溝が巡り、盾形形状をしていました。主体部は、後円部頂に砂岩製の長持形石棺が保存される。東日本では、類例の少ない大変貴重な石棺で、さらに現地で見ることが出来るのは嬉しい限りです。築造年代は、5世紀中頃と推定。

お樫稲荷古墳

三郷村66号墳

波志江町にある武尊山協会所に隣接した樫の木に覆われた円墳です。墳頂には、お稲荷様が祀られています。   墳丘は、径12.1m  高さ2.7mほどの形の良い墳丘が残ってます。埋葬施設は、未調査のため不明。

コンピラ様古墳

赤堀村278号墳

天幕城跡の北方、畑の中に南北に細長く林が残る箇所があり、その林に同化するように存在します。  林は、赤堀自然里山クラブのもので古墳前の看板も古墳の説明板と思い近づくと里山クラブの農業体験の募集でした。  墳丘規模は、全長27mの前方後円墳ですが、前方部は判然としないのが現状です。他詳細は不明。

ゴンゴン塚古墳

アフロ畑にコブ

天幕城跡の北東に位置する径18.2m、高さ2.7mほどの円墳で、畑の中にこんもりと残ってます。アフロヘアーのような畑に、形の良い墳丘がコブのようにこんもりとする姿は、何とも言えない天然の美です。ネーミングも「ゴンゴン塚」と大変にユニークな名前が付き、以前は「赤堀村297号墳」とも言われた。

一ノ関古墳

スロープ状の狭い墓道

粕川の西側に位置する前方後円墳で、現状は浸食によって前方部は削平される。墳丘は、復元整備されて史跡公園として整備されています。  墳丘は、全長28mに復元されてますが、実際は50mほどあったと思われます。2段築成の墳丘には葺石が認められ、テラスには円筒埴輪、周溝にも円筒埴輪、家型埴輪が並んでいました。主体部は、南に開口する両袖式横穴石室で、輝石安山岩の割石を用いて構築される。羨道入り口には、閉塞石が残り、幅の狭い前庭部が下段葺石までスロープ状に設けられており、たいへん珍しい構造となってます。  出土遺物は、鉄鏃、耳環、提瓶、須恵器高坏が出土。築造年代は、6世紀後半と推定される。
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三社神社古墳

剛志村69号墳

広瀬川の左岸台地上、三社神社に残る前方後円墳で、墳丘は神社の土台となってます。現状、前方後円墳の面影は、ほとんどありません。  墳丘は、全長54.5mの中規模程度の規模に、周溝が巡っていたようです。埋葬施設は、横穴石室で、副葬品として刀、玉類が出土しています。

三郷村83号古墳

荒砥二之堰遺跡の南方

前橋市飯土井町の荒砥二之堰遺跡のすぐ南に位置する円墳で、川を挟んだ対岸にあるので何らかの関連性があると推測されます。  墳丘規模は、径36.3m、高さ6mほどで、なだらかな墳丘をしてます。埋葬施設などの他詳細は不明。

丸塚山古墳

3基の組合式箱式石棺

赤城山の南の裾野、台地先端部に位置する帆立貝式前方後円墳で、前方部を南に向け、畑の中に馬蹄形の周溝まで良く残してます。  墳丘規模は、全長81m、後円部径58m、高さ8m、前方部幅26m、 前方部長27m、高さ2.5mを測り、葺石が確認されてます。埋葬施設は、3基の箱式石棺が確認され、中央の3号石棺は緑泥片岩製で南北位に配される。両側の1号、2号石棺は凝灰岩製で、3号石棺より高く置かれる。棺内からの出土物は認められない。  墳丘から採取された円筒埴輪片は、突帯が台形状でB種ヨコハケが認められる。築造年代は、5世紀後半と推定。

八幡塚古墳(東村1号)

東村1号、2号、51号

早川の西側、東小保方町、小泉町、平井町、三室町、国定町、田部井町など、広範囲にわたって分布する旧東村には、多くの円墳がありました。そのうち八幡塚古墳は、東村1号墳とも言われ、畑の中に残ります。  墳丘規模は、径15.2mとされるが、現状はそれより小さくなっているようです。他にも旧東村の古墳で確認できたのは、墓地中にある2号墳、51号墳の円墳が良く残っている方です。

十二所古墳

墳頂部で石材露出

蕨沢川と鏑木川に挟まれた峯岸山から南に派生する丘陵上に位置する前方後円墳で、形の良い墳丘を残しています。群馬県古墳総覧では、赤堀村298号墳に該当します。  墳丘規模は、全長48m 後円部径30mを測り、幅6mの周溝が巡っていました。墳丘からは川原石、馬型埴輪片が採取され、葺石、埴輪が配されていたと考えられる。後円部墳頂に、凝灰岩製の割れ石が見られることから竪穴系の埋葬施設が想定されます。築造年代は、5世紀末と推定。

地蔵山古墳群

一望できます

粕川の左岸、蟹沼東古墳群のある赤城見台公園の南東に分布する古墳群で、かつては55数基の群集墳だったが、現在は数えるほどしか残っていない。見通しがよく古墳群を一望できます。  なかでも代表的なものは、地蔵山古墳(赤堀村1号墳)で、墳丘長60m、後円部径40m、高さ6mの帆立貝型墳で、埴輪や葺石は確認されていない。南東には径35mの円墳の達磨山古墳が位置する。。さらに南には径37mの円墳の蕨手塚古墳が位置する。主体部は、いずれも竪穴系が推測されます。このほか、赤堀村7号~9号墳が残存する。

大塚古墳

墳丘?

粕川の左岸、西野神社のある丘陵に位置する円墳ですが、墳丘は消滅しているようです。かつては古墳群を形成していたようです。南東方向には、愛宕様古墳を眺めることができます。  墳丘規模は、径31mを測り、周溝が巡る。墳丘には円筒埴輪が並べられ、土師器も出土しています。愛想埋葬施設は、竪穴系が推測される。

庚塚古墳

石山丘陵最大の古墳群

神沢川と粕川に挟まれた石山丘陵に位置する前方後円墳で、庚塚古墳群に属します。小高い石山丘陵には、石山、片田、庚塚と3つの古墳群があり、当古墳群は、最大規模で前方後円墳2基、円墳9基で構成され、中でも中核的な存在の古墳となる。現在は、工場に囲まれ墳丘は良好に残ります。  墳丘規模は、全長48.4mを測り、墳頂に形象埴輪を配し、下段平坦面に円筒埴輪を巡らしていました。埋葬施設は、両袖式の横穴石室となる。  出土遺物は、円筒埴輪、形象埴輪、武器類、玉類、須恵器などが出土する。築造年代は、6世紀中頃と推定。

御嶽山古墳

別名「稲荷山古墳」

粕川の右岸、華蔵寺町にある熊野宮となる古墳で、鳥居をくぐり抜け狭い階段を上がると墳丘にたどり着います。墳頂には、御嶽山大権現など複数の石碑が見ることができます。   墳丘規模は、径38.4m 、高さ4mを測り、埴輪片が採取されてます。埋葬施設は、未調査のため不明。出土遺物は、直刀、勾玉が出土しています。

愛宕様古墳

赤堀村272号墳

粕川の左岸の段丘上に位置する帆立貝型墳で、なだらかな墳丘を畑の中に残してます。  墳丘規模は、全長28mで小さな前方部が付くタイプで、円筒埴輪が並んでいたようです。また、周溝からも円筒埴輪、家型埴輪片が確認されてます。埋葬施設は、竪穴系が推定される。築造年代は、5世紀代と推定。

権現山古墳群

4万年前の石器文化眠る

豊城町の独立丘陵、権現山に分布する古墳群で、かつては100基を超えるほどであったが、現在は15基が残る。権現山の南断崖面の3地点から4万年前の石器が出土している。権現山石器文化と称されるほどの大きな影響がありました。そのような丘陵の中腹から麓にかけて径20m前後の古墳群が形成されました。  1号墳から4号墳が調査され、墳丘は山寄の円墳で、横穴石室を主体部とする。2号墳では、L字型の横穴石室が確認されています。各古墳からは、埴輪、土師器、須恵器、玉類、などが出土しており、2号墳(6世紀前半)→1・4号墳→3号墳(6世紀後半)の築造順と推定される。

法光寺古墳

剛志村67号墳

広瀬川の左岸、法光寺にある前方後円墳で、墓地の中に墳丘が残ってます。剛志村67号墳とも言われます。  墳丘規模は、全長45.4m、後円部高さ6.3m、前方部高さ3.6mほどを測ります。他詳細は不明。

洞山古墳

赤色塗彩の石室

粕川の右岸、東側麓に義経伝説が伝わる「赤堀の牛石」のある洞山丘陵上に位置する前方後円墳で、洞山古墳群に属す中心的存在と考えられる。ほか円墳15基、方墳1基で構成されていたが、3基ほどが残るのみ。  墳丘規模は、全長22mと小型で、墳丘は大きく陥没する。円筒埴輪が配列された内側の前方部前面には人物埴輪が配列されていた。主体部は、横穴石室ですが、奥壁の一部が残るのみで石材は抜き取られている。内部は、赤色塗彩を見ることが出来る。  出土遺物は、武器、馬具、玉類、円筒埴輪、土師器、須恵器が出土。築造年代は、6世紀の前半から中頃と推定される。ほかの古墳群からは、鏡、鉄刀、刀子、鉄鏃、耳環、玉類、須恵器は出土。古墳群の築造時期は、6世紀の前半から7世紀末にわたる。

田端山古墳

采女村49号墳

早川と粕川とに挟まれ、R17の上武道路から数百mほど西側の境下渕名の集落に残る墳丘で、采女村古墳群に属します。  墳丘規模は、径25m、高さ3mほどを測り、木の伐採がされ墳丘ラインが良くわかります。墳頂には、小さな祠が祀られる。

茂呂村古墳群

存続危うし

広瀬川の左岸、粕川とに挟まれた茂呂町、北千木町、南千木町、今泉町など複数の町にまたがって分布する古墳群で、状態の良いものは残っていない。  1号墳の上ノ山古墳(円墳)は飯福神社となっていて、古墳らしさがほとんど見られない。出土遺物は、金環、馬具、玉類、土器が出土。

華蔵寺裏山古墳

前方後方墳の可能性

粕川の西にある華蔵寺遊園地を見下ろす丘陵上にある古墳で、前方後方墳の可能性が指摘されている。  墳丘規模は、全長40mほどで、現在は全く面影ありません。出土遺物は、壺型土器が出土する。築造年代は、5世紀の初頭と推定される。

蛇塚古墳

殖蓮第二小学校に移築

粕川の左岸の段丘上に位置する前方後円墳で、かつて日乃出町400番地に墳丘が失われ、石室が露出した状態で所在していました。現在は、伊勢崎市立殖蓮第二小学校に移築復元されてます。  失われた墳丘規模は、全長56m、後円部径38m、前方部幅38mを測り、前方部を西に向ける。前方部西側から円筒埴輪片、形象埴輪片が採取される。埋葬施設は、南西方向に開口する無袖式横穴石室で、全長9mを測り市内最大規模を誇ります。一部に角閃石安山岩を使用している他は、基本的に自然石乱石積みの石室となっている。  出土遺物は、武器、馬具、玉類、金環が出土。築造年代は、6世紀後半と推定される。

蟹沼東古墳群

赤城見台公園に10基

粕川の右岸に分布する70基を越える古墳群で、方形周溝墓が数基、方墳1基が確認されているほか、ほぼ円墳で構成される。現在は、いせさき聖苑が隣接する赤城見台公園内に10基残ってます。  墳丘規模は、小さいもので径14m、最大で径40mほどを測ります。主体部は、横穴石室が中心で、一部に竪穴系の石棺が確認される。出土遺物は、武器、馬具、玉類、土師器、須恵器、人骨などが各古墳でそれぞれ出土している。築造年代は、6世紀後半~7世紀前半と推定。

観世音古墳

三郷村89号

広瀬川左岸の台地上、安堀町にある円墳で、すぐ北西に安堀古墳があります。現在は如意輪観音が祀られ、小さなお堂が建ってます。古墳は、その土台となっていてコンクリートで固められ、円墳の面影はほぼありません。  墳丘は、径21.5m 高さ3.6mほどを測り、群馬県古墳総覧によると剣が出土しているようです。他詳細は不明。

赤堀33号墳

五目牛遺跡公園

粕川の西側、上武道路と北関東自動車道が交差する西に位置する五目牛遺跡として調査され、現在、五目牛遺跡公園として古墳は整備されてます。  墳丘は、最大径47mを測る円墳で、南を除いて周溝が巡り、葺石も確認される。主体部は、未調査のため不明。築造年代は、古墳時代の後期。

赤堀村16号墳石棺

8Km移動した舟

粕川の右岸、蕨手塚、達磨山、地蔵塚古墳と同じ地蔵山古墳群に属します。現在、墳丘は失われおり、もとは地蔵山古墳の南の畑の中にあって、舟形石棺が出土しています。  失われた墳丘の規模は径20~21mほど円墳で、埋葬施設は、竪穴系の石槨に舟形石棺という大変貴重なものとなる。みどり市の天神山で産出され、おおまかに加工され、そしてこの五目牛町まで8kmの長い道のりを運ばれて最終加工されました。石棺の表面には、ウロコ状の加工跡を見ることができます。  現在、舟形石棺は赤堀町民俗資料館内に展示されております。

赤堀村294-296号墳

まだ残ってます

天幕城跡周辺には、古墳名が付けられずに、旧名で赤堀村の墳丘番号が付いて数基残ってます。  特別養護老人ホームアミーキのある北東の高台には、赤堀村294-296号墳の3基を見ることが出来ます。294号墳は、全長32.7mの前方後円墳で、水道施設内に石材が露出した状態で残ってます。295号と296号墳は、径19.6mほどの円墳で、畑の中に並んでいます。石室の天井石が露出するほうが295号墳で、296号墳のほうが墳丘状態は削平されているが良好に残ってます。

赤堀茶臼山古墳

ズラリと8棟の家

赤城山の南麓、多田山丘陵尾根頂部に位置する帆立貝型墳で、前方部を西に向け、のっぺりとした緩やかな墳丘が残ってます。  墳丘規模は、墳丘長62.4mを測り、段築、葺石、周溝を備える。多くの埴輪が配され、主に後円部上にコの字状に8棟の家形埴輪が配されていました。他にも腰掛形、高坏形埴輪、鶏形埴輪などが確認されてます。  埋葬施設は、2基の木炭槨が確認され、副葬品として1号木炭槨から、神像鏡、刀、剣、鉾、斧、短甲、冑、鉄鏃、石製模造品が出土。2号木炭槨からは、内行花文鏡、大刀が出土する。築造年代は、5世紀中頃と推定される。

赤塚山古墳(東村6号墳)

素晴らしい川原石積み

足利伊勢崎線沿いの自動車整備工場の民家敷地内にある円墳です。別称「東村6号墳」とも言われる。  墳丘規模は、径30.3m 高さ8.1mを測り、南に開口する横穴石室を備える。奥壁は1枚岩を置き、側壁は川原石を丁寧に積み、天井石は大きな石材を左右に架け、素晴らしいセンスある石室です。

金毘羅山古墳

宮郷村9号墳

利根川の左岸、藤川が利根川に合流する北にある西上之宮町集落北側の農地に残る前方後円墳で、前方部は失われてますが見通しが良く存在感を示してます。  墳丘規模は、全長は不明ですが後円部径36m、高さ3.6m、前方部前端幅7.3m、高さ1.8mを測ります。墳頂には、小さな祠が祀られ、葺石と思われる川原石を確認することが出来ます。他詳細は不明。

金蔵院古墳

別名「赤石山古墳」

広瀬川の左岸、赤石稲荷神社となっているのが径25mほどの金蔵院古墳です。すぐ下に広瀬川を見下ろすことが出来る位置にあり、墳丘は木々に覆われています。他詳細は不明。

阿弥陀古墳(茂呂村25号)

完全消滅

広瀬川の左岸に位置する前方後円墳ですが、現在は完全に更地になり見ることが出来ません。  墳丘規模は、全長45mほど小型の前方後円墳で、両袖式の横穴石室を備えていました。出土遺物は、大刀、小刀、刀子、切子玉、ガラス製小玉、耳環、人骨、土師器、須恵器、埴輪が出土。築造年代は、6世紀後半と推定。

鶴巻古墳

東村8号墳

早川右岸の低い台地上に位置する帆立貝式古墳で、かつては35基で構成される下谷古墳群に属します。現在は、最北端に残る当古墳のみとなり、復元整備されてます。  墳丘規模は、径34m 高さ2.5mほどで、北西方向に造出を備え、周溝が巡る。墳丘は、2段築成で円筒埴輪や形象埴輪が配列されていました。埋葬施設は、角閃石安山岩を用いた南西方向に開口する横穴石室で、精巧な仕上がりを見せてます。  出土遺物は、円筒埴輪、形象埴輪類、耳環、刀子、馬具、人骨が出土。築造年代は、6世紀末と推定される。
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