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河南町

寛弘寺古墳群
「寛弘寺の七ツ墓」
石川と千早川に挟まれた丘陵上に分布する92基かなる古墳群で、比較的に方墳が多くみられます。古墳群南側に新しい古墳が多く、東部北半部に大きめの墳丘が分布し盟主グループ墓域とされる。古墳群一帯は、古代豪族「紺口県主」が治めていたものと考えらてれます。
現在、開発などによってほとんどが失われましたが、寛弘寺古墳群東部のツギノ木山支群とされる1~7号墳のうち4~7号墳の4基が古墳公園として保存整備されています。また、この支群は「寛弘寺の七 ッ墓」とも言われていました。
4号墳は径29mほどの円墳、5号墳は全長33mほどの帆立貝式古墳、6号墳は一辺21~22mほどの方墳として復元保存されてます。築造年代は、5世紀代と推定される。(他詳細は別掲載)

金山古墳
双円墳のひょうたん型
葛城山地の西側、千早川右岸の小さな台地上に位置する大小二つの円墳から成る双円墳です。現在、史跡金山古墳公園として整備され、上空から見るとひょうたんのように綺麗に復元されています。
墳丘規模は、北側の小墳丘が径38.6m、高さ6.8mの円墳で2段築成を成し、南側の墳丘が径55.4m、高さ9.4mの円墳で3段築成を成しています。そして、全長85.8mを測ります。埋葬施設は、北側の小円墳に南向きに開口する全長10.6mの横穴式石室を備える。玄室と羨道に二基の凝灰岩製の刳抜式家形石棺が安置されていて、それぞれの蓋石に短辺1個ずつ、長辺2個ずつの合計6個の縄掛突起が付いています。また、南側の墳丘にも横穴式石室があることが想定されるが未調査となっている。
出土遺物は、玉類、銀環、馬具類、鉄刀、鉄鏃、須恵器、土師器などが出土。築造年代は、6世紀末~7世紀初頭と推定される。
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