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伊賀市

お旅所古墳

伊賀の石舞台

陽夫多神社のお旅所にある古墳で、横穴式石室が露出しています。またの名を「伊賀の石舞台」とも言われてます。  横穴石室の規模は、玄室部長5m、幅2.6m、高さ2.2m、羨道部長4.8mを測り、両袖式横穴石室で南に開口する。築造年代は、6世紀後半と推定。  また、陽夫多神社のある裏山には、前方後円墳や横穴石室が開口する円墳が分布する宮山古墳群があります。当古墳は、地籍図等から前方後円墳の可能性が指摘され、宮山1号墳に後続する墳墓と考えられます。

中切古墳

石室一部が露出

伊賀市喰代、山田盆地から伊賀コリドールロード(R56)と言うツーリングルートを南に入った山に囲まれた畑の中に残る円墳で、石室の一部が露出しています。  周囲の見通しが良く、畑の中に突き出す墳丘は、径11m、高さ2.5mほどですが展望所のようになってます。

勘定塚古墳

大型石室半壊

伊賀市の外山集落の丘陵裾に築造された古墳ですが、墳丘は流失し、巨石を使用した横穴式石室が露出、そして半壊状態です。  石室規模は、残存長4.7m以上、奥壁幅3.6m、高さ2mを測りますが、状態が良ければ天井石からも迫力のある大きな石室が期待できたと思われます。築造年代は、7世紀の前半と推定。  また、同丘陵には外山・鷲棚古墳群が分布しており、当古墳は真下に位置する。

宮山古墳群

「やぶた古墳の社」

陽夫多神社の裏山に分布する前方後円墳と円墳の計11基ほどから成る古墳群です。また、中世の城跡である宮山1号城~3号城があり、「やぶた古墳の社」として散策コースとして整備されてます。  主墳である前方後円墳の1号墳は、全長42mで、陽夫多神社の創始に関係した有力者の墳墓と考えられます。築造年代は、6世紀前半と推定。円墳の2号墳と3号墳とで横穴石室が開口してます。築造年代は、6世紀後半と推定。  また、麓に築かれた御旅所古墳は、地籍図等から前方後円墳の可能性が指摘され、宮山1号墳に後続する墳墓と考えられます。

寺音寺古墳

盾形周壕が巡る

山田盆地のほぼ中央北寄りの水田地帯に位置する前方後円墳で、前方部を失った状態で後円部のみ残存しています。  墳丘規模は、全長53m、後円部径35m、前方部幅22mを測り、周囲に盾形の周壕が巡っていました。盾形周溝を含めた規模は、東西長104m、南北幅82mを測る。  出土遺物は、円筒埴輪、鉄鏃、小刀、甲、馬具が出土。築造年代は、5世紀後半と推定される。

御墓山古墳

四道将軍の一人

上野盆地北東端、柘植川左岸の平地に突き出した丘陵先端部に築かれた前方後円墳で、前方部を北東方向に向けています。四道将軍の一人である孝元天皇皇子の大彦命の陵墓と伝わってます。  墳丘規模は、全長188m、後円部径100m、高さ14m、前方部幅80m、高さ10mを測り。県下最大級を誇ります。墳丘には、段築、葺石、埴輪、周溝を備えます。周溝は、前方部側に存在が認められない。また、後円部西側には、造出が付設しています。埋葬施設は、盗掘壙が確認されているが不明。  出土遺物は、円筒埴輪、蓋形埴輪、家形埴輪が確認されています。築造年代は、5世紀の初頭と推定される。
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東山古墳

県下最古級

柘植川とその支流の河合川と合流地点を見下ろす丘陵先端部に築かれた楕円形状の墳丘で、県下最古級と言われてます。  墳丘規模は、長径21m、短径17mの楕円形状を成していて墳形確定には至ってない。埋葬施設は、6.9mの長大な墓壙に割竹形木棺を納めていました。棺内には、朱色の顔料が塗られていました。  出土遺物は、棺外で鉄斧、棺内で四獣鏡、剣、銅鏃、鉄鏃、不明鉄製品、砥石、小型器台、小型高坏が出土。土器においては布留式期初頭の特徴を示している。築造年代は、4世紀前半と推定される。

王塚古墳

墳形が未確定

木津川に流れ込む比自岐川の南岸、比自岐盆地の中央から北寄りの水田の中に位置する古墳で、前方部を西に向けています。  墳丘規模は、全長48m、後円部径28m、高さ4mと言うことは確認できてますが、墳形は削平が著しいため確定するまでには至ってません。墳丘には、円筒埴輪、朝顔型埴輪、人物埴輪が並び、周囲に周溝が巡っていました。埋葬施設や副葬品などは不明。築造年代は、5世紀後葉~6世紀前葉と推定される。

辻堂古墳

排水溝備える長大な石室

服部川右岸の段丘上、山田盆地の東縁に位置する円墳または前方後円墳とされます。  墳丘規模は、径20mほどですが、すでに水田の中で墳丘が失われた状態でした。埋葬施設は、全長9.8mの長大な両袖式横穴石室で、玄室中央部と袖部に箱式石棺が安置されてます。中央部石棺は、長さ1.8m、幅0.34~0.46m、深さ0.48mを測ります。袖部の石棺は蓋を失った状態で確認されており、ベンチ付近に立て掛けられているのが、おそらく石棺石材であると思われます。  出土遺物は、鉄刀、鉄鏃、刀子、馬具、金環、ガラス製小玉、土師器、須恵器が出土。築造年代は、6世紀後半~7世紀後半と推定され、第一次埋葬が6世紀後半、第二次埋葬が7世紀後半と推定される。

鳴塚古墳

塚が鳴るのは?

山田盆地東側の谷奥部、水田の中に位置する前方後円墳で、11支群76基から成る鳳凰寺古墳群に属します。「鳴塚」の由来は、石室に吹き込む風の音が鳴ることや天皇がご譲位の際に塚が鳴るという伝承から呼ばれるようになったようです。  墳丘規模は、全長37m、後円部径21m、高さ4.8m、前方部長16m、前方部幅20m、高さ2.85mを測り、段築、周溝を備え、前方部を東に向けています。埋葬施設は、右片袖の横穴石室で全長9.2mを測ります。石室開口部は非常に狭く、羨道部も埋没気味となる。玄室に達すれば立ち上がれるスペースは十分に残ってます。  出土遺物は、乳文鏡、勾玉、管玉、須恵器子持台付𤭯が出土。築造年代は、6世紀前半と推定される。
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