top of page

蔵王町

八幡山古墳群

八幡山古墳群

辛うじて見つけた墳丘

詳細は不明。円墳と方墳が分布している。付近までは道はあるが全体的に古墳が分布している辺りは藪状態。
栄膳堂古墳

栄膳堂古墳

町内最大規模の円墳

円田盆地南の丘陵上に分布。円筒埴輪片が採集され、昭和58年に測量調査が行なわれる。径35m高さ6mの円墳で、周囲に幅5mの周溝が確認され、町内最大規模の円墳となる。  発掘調査は行なわれておらず、採集された埴輪から5世紀中頃の築造と推定。
白九頭龍古墳

白九頭龍古墳

藤原氏の終焉を物語る古墳

鎌倉幕府の支配体制を固める総仕上げの戦「文治の役」にて当主泰衡(やすひら)の異母兄 の国衡は敗退する。首は頼朝の元に送られ、胴は打ち捨てられたが藤原氏を慕う領民により、 小丘(墳丘上)に葬られる。その後、この墳丘に祠が営まれ江戸中期に「白九頭龍大明神社」と呼ばれるようになったそんな磐余がある古墳です。詳細は不明。
鉾付神社古墳

鉾付神社古墳

弓矢の名手、源義家ゆかり

奥州前九年の役で派遣された源義家が、小原の清水峠から矢を射た。矢は空を切り裂いて飛び去り、遠く離れた小さな丘の上に突き刺さった。人々は驚き、その丘に鉾附神社(鉾附神社古墳)を祀った。また、刺さった衝撃で矢柄が外れ、さらに八丁ほど飛んで落ちた所が矢柄明神が祀られた。このように地名の由来ともなった伝説が語り継がれている古墳です。墳丘についての詳細は不明。
天王古墳群

天王古墳群

町内古墳分布調査のさきがけ

昭和31年頃に円筒埴輪の破片が採集され、町内の古墳分布調査のきっかけをつくる古墳となる。東側から南側にかけて改変が見られるが、径約23m、高さ約3mの円形である。  発掘調査は行なわれていませんが、採集された埴輪から5世紀中頃に築造と推定。また、付近で3基の周溝が確認され、古墳群を形成していたと思われる。現状は藪で墳丘のラインは確認できない。
bottom of page