臨済宗正福寺の裏山、標高およそ50mの丘陵に位置する当古墳は、鎌倉時代から認識されていたようで富士山と呼ばれていた。そしてこの富士山の前に富士庵という屋敷を構えていたようです。
現在は全くと言ってよいほど面影もなく、平成元年に発掘調査が行われた時には、東側の墳丘は削平され、埋葬施設も確認されていない。墳丘があったとされる所には石碑が建てられている。
しかしながら、西か ら南側にかけて幅2mほどの周溝が確認され、大量の埴輪が出土している。その埴輪の特徴から築造年代は、西暦550年前後と推測されている。