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下野市

甲塚古墳
国分地内最初の築造
思川の左岸の台地上、下野国分寺跡に隣接する帆立貝式前方後円墳で、国分古墳群を形成しています。甲塚古墳、愛宕塚古墳、山王塚古墳、丸塚古墳との順で築かれ、国分地内では、当古墳が最初に築造される。
墳丘は二段築成で、一段目の基壇は、全長85m、後円部径63m、高さ7.5m、前方部前端幅56m、高さ4m、上段は、全長47m、後円部径31m、前方部前端幅20mを測る。埋葬施設は、凝灰岩製切石の地下式横穴式石室で、推定全長4.1m、玄室長3m、奥壁幅2m、高さ1.9mを測り、前方部前面の南方向に開口する。いわゆる「下野型古墳」を呈してます。
出土遺物は、鉄刀の切先、須恵器高坏、埴輪片が出土。築造年代は、6世紀の後半と推定される。(参照 探訪とちぎの古墳)

愛宕塚古墳
基壇を備える
思川の左岸の台地上、しもつけ風土記の丘北側に位置する前方後円墳で、国分古墳群を形成しています。墳丘上には、愛宕塚神社が鎮座します。
墳丘一段目の基壇は、全長78m、後円部径52m、高さ5mを測り、前方部を西南西に向ける。周囲には、周溝が巡っていて、埴輪はともなっていない。上段は、全長50mほどで後円部径22m、高さ3.m、前方部幅26.5m、高さ3.3を測り、基壇を有する墳丘は「下野型古墳」特有な形状です。
埋葬施設は、くびれ部に大きめの石材を用いた横穴石室が考えられます。出土遺物は、須恵器が出土。築造年代は6世紀末と推定され、甲塚に後続する。(参照 現地説明板、日本古墳大辞典、下野市HP)

山王塚古墳
愛宕塚に後続する
思川の左岸の台地上、丸塚古墳と隣り合った位置に分布する前方後円墳で、国分古墳群を形成しています。現状、だいぶ基壇は削平されてますが、それなりの形状を保ってます。
一段目の基壇は、全長72mを測り、二段目は、全長51.5m、後円部径24m、高さ4.5m、前方部前端幅20m、高さ4mを測る。墳丘には、周溝が巡り、前方部を西に向ける。
埋葬施設は、くびれ部に半地下式横穴式石室が南方向に開口する。奥壁は、凝灰岩切り石、側壁は川原石を小口積みにし、玄室長6.1m、最大幅2.6m、高さ2mと推定される。出土遺物は、鉄地銀張製帯先金具、須恵器大甕片が出土。築造年代は、6世紀末と推定され、愛宕塚に後続する。(参照 探訪とちぎの古墳)

丸塚古墳
最後の大型墳丘
思川の左岸の台地上、山王塚古墳と隣り合った位置に分布する大型の円墳で、国分古墳群を形成しています。山王塚古墳に後続して造られ、その後、この地域には大型墳丘の築造がなくなる。
一段目となる基壇は、径58mを測り、幅10mほどの周溝が巡る。二段目は、径38m、高さ6mで、葺石が認められ、埴輪はともなわない。埋葬施設は、南南西に開口する凝灰岩の切石を箱状組した玄室長2.22m、奥壁幅1.65m、高さ1.9mの横穴石室となる。玄門は、凝灰岩の切り石を用いた刳り抜き型玄門で中央幅0.72m、高さ0.9mを測る。現在でも長い羨道が残っているが、前室があった可能性が考えられる。
出土遺物は、須恵器、土師器、ガラス小玉が出土。築造年代は、7世紀の前半と推定される。
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